ビル・ウォルトン
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ビル・ウォルトン
Bill Walton
1974年ごろ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1952年11月5日
没年月日 (2024-05-27) 2024年5月27日(71歳没)
出身地 カリフォルニア州ラ・メサ
身長211cm (6 ft 11 in)
体重95kg (209 lb)
キャリア情報
高校ヘリックス高等学校(英語版)
大学UCLA
NBAドラフト1974年 / 1巡目 / 全体1位[1]
ポートランド・トレイルブレイザーズから指名
プロ選手期間1974年?1988年
ポジションC
背番号歴32, 5
永久欠番トレイルブレイザーズ  32 
経歴
1974?1979ポートランド・トレイルブレイザーズ
1979?1985サンディエゴ / ロサンゼルス・クリッパーズ
1985?1988ボストン・セルティックス
受賞歴


NBAチャンピオン (1977, 1986)

NBAファイナルMVP (1977)

NBAシーズンMVP (1978)

NBAオールスター (1977, 1978)

オールNBAファーストチーム (1978)

オールNBAセカンドチーム (1977)

NBAオールディフェンシブファーストチーム (1977, 1978)

NBAシックスマン賞 (1986)

NBAリバウンド王 (1977)

NBAブロック王 (1977)

NBA50周年記念チーム

NBA75周年記念チーム

No.32 ポートランド・トレイルブレイザーズ永久欠番

NCAAチャンピオン (1972, 1973)

2×NCAAトーナメントMOP (1972, 1973)

コンセンサス・全米カレッジ最優秀選手 (1972-1974)

オールアメリカン・コンセンサスファーストチーム (1972-1974)

No.32 UCLA永久欠番

NBA通算成績
得点6,215 (13.3 ppg)
リバウンド4,923 (10.5 rpg)
アシスト1,590 (3.4 apg)
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

バスケットボール殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)

ウィリアム・セオドア・ウォルトン3世(William Theodore Walton III, 1952年11月5日 - 2024年5月27日)はアメリカ合衆国カリフォルニア州ラ・メサ出身の元プロバスケットボール選手。NBAポートランド・トレイルブレイザーズボストン・セルティックスなど3チームに所属した。身長211cm、体重95kg。ポジションはセンター1993年バスケットボール殿堂入りを果たした[1]。また自身の子息はロサンゼルス・レイカーズサクラメント・キングスなどでヘッドコーチを務め、現在はクリーブランド・キャバリアーズのアシスタントコーチを務めるルーク・ウォルトンである。
経歴

大学時代は名将ジョン・ウッデンの下、UCLAを2度の全米制覇に導き、3年連続で最優秀選手に選ばれるなどスター選手として活躍した。大学卒業後、1974年のNBAドラフト(英語版)で1位指名をポートランド・トレイルブレイザーズから受けNBA入りした。ブレイザーズでは年々成績を伸ばし、3年目の1976-77シーズンには、平均18.6得点、14.4リバウンド、3.8アシスト、1.0スティール、3.2ブロックを記録し、リバウンド王に輝いた。また、オールスター、オールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ1stチームにも選ばれた。プレーオフではカリーム・アブドゥル=ジャバーのいたレイカーズを4-0で破り、NBAファイナルへ進出。フィラデルフィア・76ersにも4-2で競り勝ち、ファイナルMVPに選ばれた。翌1977-78シーズンも、得点とアシストで自己最高を記録するなど活躍し、オールスター、オールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ1stチームに加え、シーズンMVPも受賞した。プレーオフでは怪我により2試合しか出場できず、シアトル・スーパーソニックスに2-4で敗れた。 

その後のウォルトンは怪我により調子を落とすようになり、サンディエゴ・クリッパーズ(現在のロサンゼルス・クリッパーズ)を経て、1985年9月に、ボストン・セルティックスへ移籍した。1985-86シーズンは自己最多の80試合に出場、シックスマンとしてチームを支え、シックスマン賞を獲得した。プレーオフではNBAファイナルに進出し、ヒューストン・ロケッツを破り優勝した[2]。翌86-87シーズンは、怪我で10試合の出場に留まり平均得点は2.8得点まで落ち込んだ。プレーオフではチームはファイナルに進出したが、ロサンゼルス・レイカーズに惜敗した。

現役引退後は解説者として活躍し、日本のバスケ雑誌ダンクシュートでも短期間ではあるが自らのコーナーを持っていた。

1993年バスケットボール殿堂入りを果たし、1996年には、NBA50周年を記念した「50人の偉大な選手」の1人に選ばれた。彼はその怪我の多さから現役時代「メディカル・ビル(医療費請求書=ファーストネームの「ビル」とかけている)」の異名を頂戴し、出場468試合(公式に引退を表明した87-88シーズンを含めると全休4回)と殿堂入り選手の中でもっとも出場試合が少ないことでも有名である(殿堂入りが決定した時点)。

2024年5月27日結腸癌のためサンディエゴの自宅で死去した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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