ビルマ暦
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ビルマ暦(ビルマれき、ビルマ語: ??????????????、発音 [mj?ma t???k????] ミャマー・テッカリッ、または ?????????????、[k??za t???k????] コーザー・テッカリッ、英語: Burmese Era、略してBE)またはミャンマー暦(英語:Myanmar Era、ME))は、月は朔望月、年は恒星年に基づいている太陰太陽暦である。この暦は概ね古いヒンドゥー暦に基づいているが、インドが採用したシステムとは異なり、メトン周期[注釈 1]を採用している。故に、ヒンドゥー暦の恒星年とメトン周期の太陽年を調和させるために、不定期的に閏月と閏日を追加している。

この暦は、ピュー時代(Pyu era)とも呼ばれるスリ・クセトラ王国で640年に創始されて以来、ビルマの様々な国で連続して使用されてきたのみならず、他の東南アジアインドシナ半島のアラカン(Arakan、現ラカイン州)、シーサンパンナラーンナーラーンサーン王朝アユタヤ朝カンボジアなどの王国でも19世紀後半にいたるまで公式の暦として採用されていた。

現在もミャンマーではグレゴリウス暦と並ぶ形でこのビルマ暦が公式の暦として、また同国の新年の伝統祭事であるティンジャンや仏教に関連した諸祭事(英語版)の開始日をマークする目的でも用いられている。
歴史
起源

ビルマ年代記(Burmese chronicles)は、ビルマ暦の起源について、カリ・ユガの時代が始まったとされた、古代インド紀元前3102年にまで遡って記述している。不完全だったこの暦は、釈迦の母方の祖父であるアンジャナ王(?????、Anjana)によって、前691年に再調整され、その後は、紀元前544年を起点とする仏滅紀元に改められていると言われている[1]。仏滅起源は、西暦紀元頃までにはピュー族の都市国家で採用されるようになったという。そして、西暦後78年、インドではシャカ紀元(サカ時代)と呼ばれる新時代が始まった。2年後には、ピュー族国家のスリ・クセトラ王国(Sri Ksetra Kingdom)で新紀元が採用され、その後、他のピュー国にもこの紀元法が広まった[2]

年代記によると、パガン王朝は初めこそ当時主流だったサカ紀元やピュー族の紀元に従ったものの、西暦640年3月21日に、ポパ・ソウラハン(Popa Sawrahan)王[注釈 2]が再度この暦を調整し、新紀元として西暦638年3月22日を開始日とするコーザー・テッカリッ(????? ????????、[k??za θ??k????])[3]を創設・採用した[4][5]。仏教時代は宗教的な暦として使用され続けた一方、市民暦としても用いられた。

学問的には、暦の北インドの起源とビルマでのマハーサカラージ時代までの採用時期に関する年代記の叙述を受け入れている。近年の研究では、グプタ朝時代の西暦320年にもピュー族の国で使われていた可能性があるというが、主流の学説では、調整された暦はスリ・クセトラで開始され、その後、新興国だったパガン朝が採用したとされている[6][7]。ただし、1993年に発見されたピュー族の石碑は、ピュー族の国家がグプタ時代も使用していた可能性を示しており、さらなる研究が進められなければならないという[8]
広がり

1044年アノーヤターが王として即位する形で国として成立したパガン王朝が11世紀から13世紀にかけて台頭すると、同国の治めた他の地域でもこの暦が採用されるようになった。西はアラカン(Arakan)、東は現在のタイ北部やラオスシャン族諸国家に至るまで、ビルマの新年に関わる民間伝承とともに暦が採用され、その周辺地域や近隣諸国でのビルマ暦の運用が始まった[9]チエンマイ年代記とチエンセーン年代記によると、チエンマイ、チエンセーンとタイの中・上流(ランプーンハリプンチャイ王国スコータイ朝を除く)にあったその属国がアノーヤターに服従し、11世紀半ばにクメール王朝の標準暦マハーサカラージ(Mah?sakaraj)に代わってこの暦を採用したとされている[10]。しかし、学問的には、現代のタイにおけるビルマ暦使用の証拠は、最古のものでも13世紀半ばのものまでしかないとされている[11]

その後、ビルマ暦は南はスコータイ朝、東はラオスの国々にまで広まったようである[10]。しかし一方で、さらに南のアユタヤ朝と東のラーンサーン王国が公式に採用したのは、16世紀にタウングー朝バインナウン王がこれらの王国を征服してからのことである。その後のアユタヤでは、1889年までビルマ暦をチュラ・サッカラートパーリ語:Cul?sakaraj)の名で公式暦として保持していた[12][13]。以後、16世紀から19世紀にかけてタイの属国であったカンボジアでも、アユタヤのビルマ暦採用を受けて、同暦を使用することとなった[14]。また、15世紀から17世紀にかけてアラカンのムラークー王国が支配していたベンガル地方チッタゴンでも暦が普及した[1]
発展・変遷

ビルマ暦の計算システムは、もともとトゥーリヤ・テイッダンタ(英:Thuriya Theiddanta、ビルマ語:?????????????、[t?u??ja? t?e??danta?])という概念を基としていた。これは主に古代インドのスーリヤ・スィッダーンタ(Surya Siddhanta、Ardharatrika学派)という「原型」に基づいていると考えられている[15]。インドとの大きな違いは、先述の通りビルマ暦がメトン周期に従っているところである。ヒンドゥー教の場合は、古代インドの天文学者が確かにメトン周期を知っており、概念として東南アジアに伝えたかもしれないながらも、恒星をベースにしたヒンドゥー暦とは相容れないために採用されなかったし現在も使われていないという[16]。ただメトン周期がいつから、またどこから取り入れられたのかは定かでなく、場所に関しても中国からヨーロッパまで様々な説がある。ヨーロッパ説に関しては1998年に記述したものがある[17]が、2001年にはこれを否定し、「東南アジアの天文学にヨーロッパの影響の痕跡は他に見あたるところがない」と述べ[16]、むしろ中国がメトン周期の源流であった可能性を示唆する研究がある[18]

以上のことから、ビルマ暦はヒンドゥー暦の恒星年に基づくシステムと、メトン周期の概念を組み合わせた奇妙な方式をとっており、この方式は閏日閏月の不定期の挿入を要することとなった[19]。加えて、ビルマ暦に進化したインドの恒星年の計算機構が取り入れられたのは19世紀中頃である。アーウィン(A.M.B. Irwin)は、1738年までに暦はオリジナルのスーリヤを適応させたマカランタ・システム(Makaranta system)になっていたと指摘する[20]が、イード(J. C. Eade)はアーウィンの調査を疑い、少なくともパガン朝時代の碑文までにおいて東南アジア本土に残っているオリジナルの暦体系との相違を見いだせなかったと述べている[21]。ビルマ暦がタイで公式に採用されたのは1564年であり、その後タイの暦はまだスーリヤ・システムを使用しているので、ビルマ暦も16世紀まではスーリヤに従っていたはずである[21]。仮にその後ビルマでマカランタ・システムが使われるようになったとしても、ビルマのものは「サウラ派に従うマカランダのよく知られた西暦1478年のインドサンスクリット天文表(マカランダサラーニ(Makarandasarani)とは異なるだろう」との見解もある[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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