ビルマ国民軍
[Wikipedia|▼Menu]
大東亜会議に出席した各国首脳。前列左端がビルマ軍の軍装姿のバー・モウ。続いて、張景恵汪兆銘東條英機ナラーティップポンプラパンホセ・ラウレルスバス・チャンドラ・ボース

ビルマ国民軍(ビルマこくみんぐん、Burma National Army, BNA / ビルマ語: ?????????????????????)あるいはビルマ国軍は、第二次世界大戦中に日本の指導下で「ビルマ国」の国軍として編成された軍事組織である。ビルマの戦いにおいて日本軍に協力することが期待されたが、枢軸国が劣勢になるとビルマ国政府に対して反乱を起こし、日本軍とも戦闘した。戦後のミャンマー軍の前身とみなされている。

本稿では、前身であるビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army, BIA)およびビルマ防衛軍(Burma Defence Army, BDA)、反乱後に連合国指導下で活動した後身のビルマ愛国軍(Patriotic Burmese Forces, PBF, 直訳的にはビルマ人愛国者部隊)についても述べる。
沿革
ビルマ独立義勇軍

第二次世界大戦前、イギリスの植民地であったビルマでは、軍事部門への現地人関与はカレン族など少数民族だけに認める統治政策が採られていた[1]。そうした中で、タキン党急進派は武装独立運動を目指して活動していた。日本陸軍は、日本がイギリスと戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定しており、このタキン党などを支援することで日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとした。タキン党側でも、外国からの支援を積極的に受け入れる方針であったため[2]、日本陸軍の支援を受けることにした。日本陸軍は、1940年(昭和15年)から翌年7月にかけて、アウンサンら30人のタキン党員(三十人の志士(ビルマ語版、英語版))を密かに亡命させた。また、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」を創設した。アウンサンらは、南機関の支援を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓練を開始した。南機関としては、訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であった。

1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発して日本とイギリスが戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイ領バンコクに拠点を移し、ビルマ独立義勇軍(BIA)の編成に着手した。12月28日に宣誓式が行われ、タイ在住のビルマ人約200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成された。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージョー大将を名乗って就任、アウンサン(階級は大佐)らは参謀などとされた。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。

ビルマ独立義勇軍は、1942年(昭和17年)1月3日から、ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれた。ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進した。一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。3月25日には、首都ラングーンで4500人による観兵式を行った[3]。4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問としての立場に退いた[4]。ビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた[5]

1942年6月には、湖沼地帯での作戦用に、兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置された。元イギリス海軍兵が主体だった。現在のミャンマー海軍の起源とされる[6]
ビルマ防衛軍

日本は、ビルマに軍政を敷いて、ただちに独立は認めなかった。ただし、バー・モウを首班とする自治政府の整備を進めた。それと同時に、日本軍は、ビルマ独立義勇軍の縮小再編を進める方針を決めた。これは、肥大化したビルマ独立義勇軍を規律のとれた国軍として整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を集めて日本の占領統治の妨げとなることへの危惧から、決まった方針だった[5]

1942年7月、ビルマ独立義勇軍は解散となり、3個大隊(2800人)からなるビルマ防衛軍(BDA)が創設された。ビルマ防衛軍は、自治政府の下ではなく日本軍の補助部隊としての地位にあり、第15軍兵備局に隷属した。アウンサンらに同情的だった南機関は、解散させられた。将来的には1万人程度の規模まで拡大することを予定し、日本軍指導下での幹部養成のため、ビルマ幹部候補生隊も設置された[5]。幹部候補生隊の卒業生の一部は、日本の陸軍士官学校へと留学している(第1期生からは30人が陸士57期に編入)[7]
ビルマ国民軍1943年11月、大東亜会議に出席したバー・モウ(向かって一番左)。ビルマ国民軍の軍服を着用している。

1943年(昭和18年)8月、日本の指導下で「ビルマ国」(首班:バー・モウ)が独立すると、ビルマ防衛軍は、その国軍であるビルマ国民軍(BNA)に移行した。軍事担当の官庁として国防省が置かれ、アウンサンが国防相に就任。後任の軍司令官にはネ・ウィン大佐が就くなど、国防省や軍の要職は独立義勇軍初期からの面々が占めた。

しかし、ビルマの独立が名目的であったことに不満を持つ軍幹部が多く、密かに抗日組織が軍内部に構成されていった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef