ビルギット・ニルソン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

デンマーク出身の女優「ブリジット・ニールセン」とは異なります。

ビルギット・ニルソン
Birgit Nilsson
ビルギット・ニルソン(1948年)
生誕マルタ・ビルギット・スヴェンソン
(1918-05-17) 1918年5月17日
 スウェーデンスコーネ県、ヴェストラ・カルップス
死没2005年12月25日(2005-12-25)(87歳)
 スウェーデンスコーネ県クリヒャンスタ
教育ストックホルム王立音楽アカデミー(ストックホルム音楽大学
職業ドラマティック・ソプラノ・ワーグナー・ソプラノ
活動期間1946年 - 1984年
受賞

宮廷歌手(スウェーデン)、1954年[1]

宮廷歌手(バイエルン)

レジオンドヌール勲章コマンドール

グラモフォン』誌 Hall of Fame in 2012[2]

テンプレートを表示
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

マルタ・ビルギット・ニルソン=ニクラソン(スウェーデン語:Marta Birgit Nilsson-Niklasson、1918年5月17日 - 2005年12月25日)は、 スウェーデンの著名なドラマティックソプラノオペラ声楽の幅広いレパートリーを歌ったが、リヒャルト・ワーグナーリヒャルト・シュトラウスのオペラでの歌唱で最もよく知られている[3]。彼女の声は、その圧倒的な声量、揺るぎない豊かな持続力、そして高音域のきらめく輝きと透明な響きで高名であった。
概略

ニルソンは「ニルソンのレパートリー」と呼ばれるほど多くの役柄に強い影響をもたらした。リヒャルト・シュトラウスのオペラを歌い、プッチーニの『トゥーランドット』を得意としたが、彼女の経歴を語るうえでワーグナーは不可欠である。 彼女はかつて「イゾルデは私を有名にしてくれ、トゥーランドットは金持ちにしてくれたわ」と語った[4]。これらの楽曲における彼女の世界的な支配力は、第二次世界大戦前にメトロポリタン歌劇場のワグナー作品を支配していたキルステン・フラグスタートに匹敵する。
生涯
若年期

ビルギット・ニルソンはマルメから100キロ北にあるスコーネ地方のヴェストラ・カルップス(英語版、スウェーデン語版)の農場で、ニルス・スヴェンソンとユスティナ・スヴェンソン(旧姓パウルソン)の間に、マルタ・ビルギット・スヴェンソンとして生まれた。3歳のとき、母親が購入したトイピアノでメロディーを弾き始めた。 彼女はかつてインタヴューで「歩き出す前から歌い始めていた」と語り、「夢の中でさえ歌っていた」と付言している。 彼女の声の才能は、教会の合唱団で歌い始めたときに最初に気づかれた。近隣の聖歌隊長が彼女の歌を聞いて、声楽のレッスンを受けるように助言した。

彼女は、ストックホルム王立音楽アカデミーでのオーディションのため、オーストルプでラグナー・ブレノウに6か月間学び、47人の歌手の中から最初に著名なソプラノにちなんだクリスティーナ・ニルソン奨学金を授与された。アカデミーではヨーゼフ・ヒスロップとアルネ・スネゴードに師事した。しかし、彼女は独学だと考え「舞台が最高の教師」だと1981年のインタヴューで語っている。「舞台に出て、試みることから学ばなければならない」。彼女は当初の指導を嘆き、成功したのは生まれつきの才能のおかげだとし、「最初の教師(ヒスロップ)には殺されそうになった。2番目も同じくらいひどかった」[5]1947年 ストックホルムのスウェーデン王立歌劇場でマクベス夫人を演じるビルギット・ニルソン
初期の出演歴

1946年、ニルソンはストックホルムロイヤルオペラウェーバー魔弾の射手』において、病気になったアガーテ役の代役としてわずか3日間デビューした。指揮者のレオ・ブレッヒはあまり親切ではなく、彼女の自伝によれば、公演後に自殺すら考えたという。しかし翌1947年に彼女はフリッツ・ブッシュの息子で演出家のハンス・ブッシュの抜擢を受け、ヴェルディマクベス』マクベス夫人として国民的な注目を集めた[6]。続いて、シュトラウス、ヴェルディからワーグナー、プッチーニ、 チャイコフスキーまで、さまざまな役柄を演じた。ストックホルムで、ドンナ・アンナアイーダリーザトスカヴェーヌスジークリンデゼンタ、そして スウェーデン語で歌われる彼女の大好きなマルシャリンなど、リリックからドラマティックまで、着実なレパートリーを築き上げた。1949年、彼女は『ナクソス島のアリアドネ』をイェルディス・シンベリとエリーサベト・セーデルストレムなどとともに歌った。
国際的な活躍

フリッツ・ブッシュの指導の下で彼女は世界に羽ばたいた。彼は1951年のグラインドボーン音楽祭でのモーツァルトイドメネオ』エレットラとして、スウェーデン国外での最初の重要な契約獲得に尽力した。ニルソンは国際的な知名度を獲得し、1953年のウィーン国立歌劇場へのデビューが転機となった。彼女はそれから25年以上の間、レギュラー出演者として活躍することになる。1954年にはバイロイト音楽祭でワーグナー『ローエングリン』エルザを演じ、同年にミュンヘン・フェスティバルにおいてバイエルン国立歌劇場ニーベルングの指環』全曲演奏で最初のブリュンヒルデを歌った。その後、1969年までバイロイトでジークリンデ、ブリュンヒルデ、イゾルデとして活躍した。

また、短時間ながら非常に大きな声量を必要とする『トゥーランドット』タイトルロールを1958年にミラノスカラ座で披露し、その後はイタリア各地で公演を行った。1956年にはサンフランシスコ・オペラのワーグナー『ワルキューレ』ブリュンヒルデでアメリカデビュー。1959年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でイゾルデを演じ、国際的なスターになった。1958年にスカラ座の第180シーズン記念オープニングにトゥーランドット役で出演を依頼されたことが人生最大の出来事だったという。他にも、ウィーンベルリンコヴェント・ガーデン王立歌劇場東京パリブエノスアイレスシカゴハンブルクなど世界中の主要な歌劇場に出演している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef