ビリー・ワグナー
Billy Wagner2022年8月27日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地バージニア州スミス郡マリオン
ウィリアム・エドワード・ワグナー(William Edward Wagner, 1971年7月25日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州スミス郡マリオン(英語版)出身の元プロ野球選手(投手)。愛称はビリー・ザ・キッド(Billy the Kid)。
現役時代はヒューストン・アストロズ、ニューヨーク・メッツなどでクローザーとして活躍、通算422セーブを挙げた。2017年シーズン終了時点で、MLBにおける最多セーブ投手の獲得経験のない投手では最多のセーブ数である。
息子のウィル・ワグナーもプロ野球選手(内野手)である。 元々は右投げであったが、5歳の頃にアメリカンフットボールで右腕を2回骨折した。本人は当時について「フットボールができないとイライラして、帽子を無茶苦茶にしていたね」と語っている[1]。そのため、回復を待ちきれなかったワグナーは、利き腕ではなく全く痛めていない左腕で投げるようになった。こうして、現在の左腕での投球がなされるようになったのである。 1993年のMLBドラフト1巡目(全体12位)でヒューストン・アストロズから指名され、プロ入り。 1995年9月13日にメジャーデビューを果たし、この年のメジャー登板はこの1試合でシーズンを終えた。 1996年開幕当初はAAA級ツーソン・トロズ所属だったが、先発投手として12試合に登板して6勝2敗、防御率3.28を記録した。6月6日からはメジャーで登板し、リリーフとして37試合に登板し、防御率2.44、奪三振率11.67を記録した。 1997年は29回のセーブ機会で23セーブで成功し、66.1回を投げ106三振を記録した。シーズン奪三振率14.4はシーズン50回以上投げた投手の大リーグ記録となった[2]。 1998年は7月16日から15日間の故障者リスト入りとなったが[3]、58試合に登板して球団史上3位となる30セーブを記録した[3]。 1999年、球団新記録となる39セーブを記録した[4]。ナショナルリーグのローレイズ・リリーフマン賞を受賞し[4]、サイ・ヤング賞の投票ではランディ・ジョンソン、マイク・ハンプトン、ケビン・ミルウッドに次ぐリリーフ投手として最高の4位に入った[5]。 2000年は故障のため28試合の登板に留まり、防御率6.18、6セーブに終わった。 2001年10月2日、史上最速となる341イニングでの通算500奪三振を達成し、ロブ・ディブルが持っていた記録を更新した(2015年にクレイグ・キンブレルに更新された)。この年は64試合に登板して防御率2.73、39セーブを記録した。2002年1月には2002年から3年2700万ドル、4年目は球団オプションで契約延長した[6]。 2003年6月8日のタンパベイ・デビルレイズ戦で通算200セーブを達成し、デーブ・スミス
経歴
プロ入り前
プロ入りとアストロズ時代
フィリーズ時代フィラデルフィア・フィリーズでの現役時代
(2004年)
アストロズは年俸総額抑制のため主力選手の放出をしなければならなくなり、オクタビオ・ドーテルやブラッド・リッジの成長も重なってワグナーはトレード要員の有力候補となった[8]。そして2003年11月3日にブランドン・ダックワース、テイラー・バックホルツ(英語版)、エセキエル・アスタシオ(英語版)との1対3のトレードで、フィラデルフィア・フィリーズへ移籍した[6]。移籍1年目の2004年、5月14日からと7月30日からの2回故障者リスト入りで[9]45試合の登板に留まったが、防御率1.69、25セーブを記録した。球団は2005年の900万ドルのオプションを行使した。2005年は1年を通して活躍し、38セーブを記録した。一方、チームは2ゲーム差で地区2位に終わった。 クローザーを必要としていたメッツはFA市場でワグナーが1番と判断し、2005年11月29日に4年4300万ドル(5年目は球団オプション)の長期契約を結んだ[10]。前半にはセーブ失敗が目立っていたが、7月4日には通算300セーブを達成。8月以降には1つも失敗することなく18連続セーブを記録し、トレバー・ホフマンの46セーブに次ぐリーグ2位の40セーブを記録した。チームは地区優勝でポストシーズン進出を果たしたが、アストロズ時代のポストシーズン通算防御率9.66のワグナーをニューヨークのメディアはポストシーズンの活躍を危惧した[11]。ワグナーは6試合に登板して3セーブを記録したが防御率9.53で、リーグチャンピオンシップシリーズ第2戦では田口壮にソロ本塁打を打たれるなどで3失点を喫し、負け投手となった[12]。
メッツ時代