ビリー・レッド・ライオン
プロフィール
リングネームビリー・レッド・ライオン
ビリー・ライオン
マスクド・クルセーダー1号
本名ウィリアム・スニップ
ニックネーム赤毛の獅子
身長188cm[1]
体重109kg(全盛時)[1]
誕生日1932年5月17日[1]
死亡日 (2009-06-22) 2009年6月22日(77歳没)[1]
出身地 カナダ
オンタリオ州ハミルトン
デビュー1954年[1]
引退1985年[1]
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ビリー・レッド・ライオン(Billy Red Lyons、本名:William Snip、1932年5月17日 - 2009年6月22日)は、カナダのプロレスラー。オンタリオ州ハミルトン出身[2]。
地元オンタリオのトロントを本拠地としていたフランク・タニー主宰のメープル・リーフ・レスリングを主戦場に活動した[3]。ザ・デストロイヤーとは双方の配偶者が姉妹同士で、義兄弟の関係にあった[3]。 ハミルトンのYMCAでレスリングを学び、ジミー・シムズ[4]のトレーニングを受けて1954年にデビュー[1]。ベビーフェイスのポジションでアメリカにも進出して各地を転戦し、1958年2月にはレイ・ガンケルをパートナーに、ジョージア版のNWAインターナショナル・タッグ王座を獲得[5]。主戦場のメープル・リーフ・レスリングでは1962年3月28日、ホイッパー・ビリー・ワトソンと組んでクリス・トロス&ジョン・トロスからトロント版の同タッグ王座を奪取している[6]。 1965年3月27日、カリフォルニア州サンフランシスコにて義兄弟のザ・デストロイヤーと組み、レイ・スティーブンス&ドン・マノキャンを下してアメリカン・レスリング・アライアンス認定の世界タッグ王座を獲得[7]。同年5月、デストロイヤーとのコンビで日本プロレスに来日し、6月3日に札幌にて豊登&ジャイアント馬場からアジアタッグ王座を奪取、7月15日に静岡で豊登組に奪還されるまで保持した[8]。その後、デトロイトを経てテキサスの東部地区に入り、1967年11月8日にNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得[9]。1968年1月30日にはフリッツ・フォン・エリックと組み、ザ・スポイラー&ゲーリー・ハートからNWAアメリカン・タッグ王座を奪取している[10]。 1968年8月から1970年5月にかけてはバーン・ガニア主宰のAWAで活動し、ラリー・ヘニング、ハーリー・レイス、ラーズ・アンダーソン、ブラックジャック・ランザ、そしてドクターXことデストロイヤーとも対戦[11][12]。同じく「レッド」を名乗るレッド・バスチェンとタッグを組み、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した[13]。イギリス連邦のカナダ出身であることから、1968年12月には後にビル・ロビンソンも獲得するAWA大英帝国ヘビー級王座の初代王者に認定されている[14]。 AWAを離れると中南部のトライステート地区に入り、1970年11月29日にルイジアナ州モンローにてビル・ワットと組み、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッド・ブロンズからUSタッグ王座を奪取[15]。1972年はテキサス地区に戻ってスポイラーやジョニー・バレンタインとNWAアメリカン・ヘビー級王座を争い、AWAでも組んでいたバスチェンとのタッグチーム、フライング・レッドヘッズ(The Flying Redheads)でも活躍した[16]。 1973年1月、末期の日本プロレスに再来日。1月12日の北海道滝川市大会にて、前年12月にインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した大木金太郎の初防衛戦の相手を務めた[17]。1月28日の和歌山県御坊市大会では、ミスターX(ジム・オズボーン)と組んで坂口征二&吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦している[17]。
来歴