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ビリー・ホリデイ
ビリー・ホリデイ 1949年
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影
基本情報
出生名エリノラ・フェイガン・ゴフ
別名レディ・デイ
生誕1915年4月7日
出身地 アメリカ合衆国・メリーランド州・ボルチモア
死没 (1959-07-17) 1959年7月17日(44歳没) アメリカ合衆国・ニューヨーク州・ニューヨーク市・マンハッタン区・ハーレム
ジャンルジャズ
職業歌手
活動期間1935年-1959年
レーベル Columbia Records
(1933年-1942年、1958年)
Commodore Records
(1939年、1944年)
Decca Records
(1944年-1950年)
Verve Records
(1952年-1959年)
公式サイトBillie Holiday Official Site
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。
「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる[1]。彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となった。
彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たした。また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された[2]。
生涯
幼少期ビリー・ホリデイ
1917年撮影
ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは1915年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで、母サラ・ジュリア・セイディー・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(英語版)(同17歳)の元に産まれた。『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』[3]によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という、子どものような二人が結婚し、自分はその間に生まれたと語っているが、後のジャーナリストたちの調査によれば、実際はクラレンスとセイディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエレオノーラを認知すらしようとしなかったという。
父クラレンスはジャズ・ギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏、昼は街頭を流して生活をしていた。そのためエレオノーラは幼少期を母子家庭のもと、メリーランド州ボルチモアのアッパー・フェルズ・ポイント(英語版)地区で育てられた。しかしセイディーにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。セイディーはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねていた。親族の家を転々として生活していたエレオノーラにとっても、日々の生活は楽ではなく、従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚めパニックを起こしたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間もの間無言症を患うことになった。
やがて学校へ全く通わなくなったエレオノーラは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた[4]。同年3月19日、エレオノーラはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた[5]。
1925年10月25日、セイディーは仮釈放の身となったエレオノーラを手元に引き取った[5]。しかし、セイディーは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エレオノーラは近所の男性に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストのスチュアート・ニコルソンが著したノンフィクション書『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』[6]によると、それは1926年のクリスマス・イブのことだった。エレオノーラはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエレオノーラは、1925年に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では1927年2月まで生活した。
1928年にはセイディは再びエレオノーラを取り戻し、共にニューヨークへと移住した[7]。母は娘を売春宿に預けて再び売春を始めた。1929年には母と共に、エレオノーラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。やがてエレオノーラは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。それ以降様々なクラブで仕事をするようになったエレオノーラは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めるようになった。この頃父のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
そんな中、15歳のある日彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。幼い頃自分に会いに来た父が、男性のような外見の彼女をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに父の姓をつけた「ビリー・ホリデイ」を芸名に決めた。 活動初期にはケネス・ホランと共に、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになった。ホリデイはそれらのクラブでチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone」や「Them There Eyes」を歌うようになった頃にはそこそこの蓄えができていた。 1933年、コロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドが、クラブ「モネッツ」で穴埋めを務めていたビリーの歌を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画する。この日、18歳の彼女は「Your Mother's Son-in-Law」と「Riffin' the Scotch」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はケネス・ホランと共演。
活動初期