ビリー・ジョエル
USAニューヨーク公演(2016年4月)
基本情報
出生名ウィリアム・マーティン・ジョエル
生誕 (1949-05-09) 1949年5月9日(75歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市サウス・ブロンクス
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ポップ・ロック[1]
ソフトロック[1][2]
職業
ミュージシャン
シンガーソングライター
ピアニスト
作曲家
担当楽器
ボーカル
ピアノ
活動期間1965年 -
レーベル
コロムビア
ファミリー・プロダクション
ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin Joel、1949年5月9日 - )は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガーソングライター、歌手、ピアニスト、作曲家。ポップなメロディと、都会的なアダルト・コンテンポラリー・サウンドで、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録している[3]。代表曲に、「ピアノ・マン」[4]、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。イギリスのエルトン・ジョンと共に、20世紀後半?21世紀前半、ピアノ・ロックというジャンルを確立した。 ナチスから逃れるためにドイツ南部からスイスを経てアメリカに亡命した、アシュケナジム系ユダヤ人ハワード・ジョエル(1923?2011)を父親に、宝石商を営むイギリス系ユダヤ人ハイマン(Heiman or Hyman)家の娘、ロザリンド・ハイマン(1922?2014)を母親に、ニューヨーク市ブロンクスで生まれてロングアイランドの新興住宅地で育つ[5]。 ジョエル家はユダヤ系だがユダヤ教に無関心(non-observant)で、親子ともユダヤ教徒ではない。 父はクラシック音楽のピアノ演奏に長けており、ビリーも母の要求で幼時にピアノを習い始めた[6]。スポーツよりも音楽に興味があり、少年時代はいじめられて自衛のためにボクシングを習った。短期間、アマチュアボクサーとして試合に出場して22勝の戦歴を重ねたが、24回目の試合で鼻の骨を折られて断念した[7]。 14歳の頃にバンドのエコーズに参加した。ヒックスヴィル高校で学んだが、バーでピアニストとして働いていたために英語の単位を落とし、中退した。「俺はコロンビア大学に行くんじゃなくてコロムビア・レコードへ行くんだから高卒の資格なんか必要ない」と言い放ち[8]、実際にコロムビア・レコードと契約した。中退から25年後の1992年、ビリーは同校にエッセイを提出して卒業資格を認定された[9]。 ミュージシャンとして、故郷のロングアイランドを拠点に活躍したハッスルズのメンバーとして活動した後、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールと、ハードロック・ユニットのアッティラを結成して1枚のアルバムを発表するが、鳴かず飛ばずで結局解散する[10]。アルバム・ジャケットでは長髪のビリーを確認できる。当時彼は鬱病に悩まされており、極度の神経衰弱から精神病院に入院している。心の問題は、大ヒットを出してからも彼を悩ませた[11]。ソロで成功してからは、前作が100万枚売れても、次作が70万枚にとどまると、彼は鬱状態になったという。 アーティ・リップ
経歴
生い立ちからグループ活動まで
初期若き日のビリー(1972年)
ビル・マーティンという名前でクラブを中心にライヴ活動を行った彼は、その後コロムビア・レコードと契約を更新[14]。そして、1973年にアルバム『ピアノ・マン』で再デビューを果たす。表題曲が全米トップ30のスマッシュ・ヒットとなった[15]ことによってこのアルバムはセールスを伸ばし、彼にとって初となるゴールド・ディスク認定作品となった。『ピアノ・マン』と同じくマイケル・スチュアートがプロデュースを手がけた1974年発表のサード・アルバム、『ストリートライフ・セレナーデ』もゴールド・ディスクに認定されている。
1975年には、4枚目のアルバム『ニューヨーク物語』を制作する。このアルバムは、当初シカゴのプロデューサーだったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデューサーとして携わっていたが、最終的にビリー1人によって仕上げられた。翌年にリリースされ、彼にとってキャリア中唯一のセルフ・プロデュース作品となったこのアルバムは、後にヒット曲となる「さよならハリウッド」「ニューヨークの想い」などを収録しながらも、商業的には不振に終わっている。 1977年に発表された5枚目のアルバム『ストレンジャー』によって、ビリーは一躍スターダムにのし上がる大きな成功を収めた。ポール・サイモンのグラミー賞受賞作『時の流れに』などを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに起用して制作されたこのアルバムは、全米2位まで上昇する大ヒットを記録[15]。アメリカでは、2003年に各フォーマット総合で1,000万枚以上も売り上げ、ダイアモンドディスクに認定された。 出世作となった『ストレンジャー』にも収められていたのが、全米3位を記録した「素顔のままで」である[15]。この曲は、1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞し[15]、彼にとって30年以上のキャリアの中で最大級のヒット曲となっている。 1978年には、アルバム『ニューヨーク52番街』を発表。このアルバムで、彼は初の全米チャート1位を獲得しただけでなく[15]、同年度のビルボードの年間アルバムチャートでも首位を記録した[16]。グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞の二部門を受賞する[15]など、その内容も高く評価されたこのアルバムは、1982年に世界で初めてコンパクト・ディスクとして発売された音楽作品としても知られている[17]。 2枚のアルバムの成功を受け、1978年初来日公演が実現、翌年の来日公演では日本武道館2日間と日本で彼の人気が爆発した。 『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功の後、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルはグラミー賞の最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する[15]。3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は、彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった[15]。 1981年には、初のライヴ盤『ソングズ・イン・ジ・アティック』をリリース。ブレイク前の初期の作品のライヴテイクを集めたこのアルバムは、アメリカと日本でトップ10ヒットとなり、ライヴ盤としては極めて大規模な成功を収めた。 『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重傷を負う[18]。1か月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。また、マネージャーとしてもビリーを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。結局、ビリーの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、1982年の9月にリリースされた『ナイロン・カーテン』は、アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした、極めてシリアスな作品となっている。また、彼は80年代も前作が100万枚以上のミリオン・セラーとなっても、次のアルバムが70万枚程度におわると憂鬱になってしまうような、心の問題を引きずっていた。 数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた[19]。この曲は、2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。 「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ親しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。
『ストレンジャー』の成功
1980年代前半