ビリー・エクスタイン
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ビリー・エクスタイン
Billy Eckstine
ニューヨークでのビリー・エクスタイン (1946年)
基本情報
出生名William Clarence Eckstein
生誕 (1914-07-08) 1914年7月8日
アメリカ合衆国 ペンシルバニア州ピッツバーグ
死没1993年3月8日(1993-03-08)(78歳)
ピッツバーグ
ジャンルジャズ
職業ミュージシャン
担当楽器ボーカル、トロンボーン、トランペット、ギター
活動期間1939年 - 1990年
共同作業者ディジー・ガレスピーチャーリー・パーカー、レイ・バスケス、サラ・ヴォーン

ビリー・エクスタイン (英語: Billy Eckstine、1914年7月8日 - 1993年3月8日)[1] は、アメリカ合衆国スウィング時代のジャズ・シンガー、ポップ・シンガー、バンドリーダーである。彼はまるでオペラ歌手のように豊かなバリトンの声で知られている[2] 。彼の「I Apologize」 (1948年、MGM) は、1999年にグラミーの殿堂入りを果たした。ニューヨーク・タイムズは彼のことを「影響力の大きいバンドリーダー」と評し、彼の「洗練されたバス・バリトン」と「ポピュラーソングへの喉を使った甘いアプローチ」はアール・コールマン、ジョニー・ハートマン、ジョー・ウィリアムス、アーサー・プリソック、そしてルー・ロウルズなどの歌手たちにインスピレーションを与えた、としている[3]
幼少期と教育サラ・ヴォーンとビリー・エクスタイン、1981年のモントレー・ジャズ・フェスティバルにて

エクスタインはペンシルバニア州ピッツバーグで、運転手の父ウィリアム・エクスタインと、仕立て屋の針子をしていた母シャーロット・エクスタインの息子として生まれた。エクスタインの父方の祖父母はウィリアム・F. エクスタインとナニー・エクスタインで、ワシントンD.C.に住んでいる混血のカップルだった。二人共1863年生まれで、ウィリアムはアイオワ州プロシア生まれ、ナニーはヴァージニア州生まれだった。

エクスタインはピッツバーグの高校に入り[4] 、ワシントンに移住してその地の高校からハワード大学へ進んだ[5]。彼はアマチュアのタレントコンテストで1位を獲得した後に、ハワードを後にした[6]

ピッツバーグのハイランド公園地区にあるブライアント通り5913番地には、エクスタインの生家を示す州の歴史標が設置されている[7][8]ペンシルバニア州ピッツバーグのハイランド公園地区にある歴史標
キャリア

彼はシカゴに移り、1939年にアール・ハインズのグランド・テラス・オーケストラに参加、ヴォーカルとトランペットを担当し1943年までそこで過ごした。その時期から、エクスタインはハインズのバンドのジュークボックス・ヒットである「Stomy Monday Blues」や自身の「Jelly Jelly」などによって、名前が広く知られるようになった。

1944年にエクスタインは自分のビッグバンドを結成し、そこはジャズの未来を担う冒険心に満ちた若いミュージシャンたちの仕上げの学校となった。このグループにはディジー・ガレスピーデクスター・ゴードンマイルス・デイビスアート・ブレイキーチャーリー・パーカー、 ファッツ・ナヴァッロ、そしてヴォーカルのサラ・ヴォーンがいた。バンドの編曲者にはタッド・ダメロン、ギル・フラー、そしてジェリー・ヴァレンティンがいた。 ビリー・エクスタイン・オーケストラは最初のボップ・ビッグバンドとされ、「A Cottage for Sale」や「Prisoner of Love」はトップテン・チャートにエントリーされた。この二つのディスクはアメリカレコード協会のゴールド・ディスクに選ばれている[9]

ディジー・ガレスピーは、1979年に出た自伝「To Be or Not to Bop」の中で次のように振り返っている。「ビリー・エクスタインのバンドは稀有の存在だ。我々のアタックは強力で、新しいスタイルのビバップを演奏してきた。世界中でこんなにエキサイティングなバンドはない」

エクスタインは1947年にソロ活動を始め、豊かで洗練されたオーケストレーションのレコードを出した。バンドを解散する前から、エクスタインはそれをサポートするためにソロ・レコ―ディングを行い、1945年の「Cottage for Sale」と「Prisoner of Love」のリバイバルは二つのミリオンセラーになった。バンドでの録音よりもさらに成功したソロの録音は、エクスタインの将来を予感させるものだった。エクスタインは1940年代後半に12曲を超えるヒットを飛ばしている。彼は新設のMGMレコードと契約し、たちまち「Everything I Have Is Yours」 (1947)、 ロジャーズ&ハートの「ブルームーン」 (1948)、そしてジャン・ティゾルの「キャラバン」 (1949) といったリバイバルでヒットを重ねた。

1951年7月8日にエクスタインは、レオン・へフリン・シニアがプロデュースしロサンゼルス・リグレー・フィールドで開催された第7回 Cavalcade of Jazz concert で公演した。共演はライオネル・ハンプトン、パーシー・メイフィールド、ジミー・ウィザースプーン、ジョー・リギンス、そしてロイ・ブラウンであった[10]

1950年4月25日号の『ライフ』誌は、エクスタインのプロフィールを3ページにわたって掲載したが、その時は写真家のマーサ・ホルムズがニューヨークで1週間エクスタインと周囲の人々に同行した[11] 。ホルムズが撮ってライフに載った写真の1枚は、エクスタインが白人女性のファンに囲まれ、ファンの一人は手を彼の肩にかけ、笑いながら頭を彼の胸にあてていた。エクスタインの伝記を書いたCary Ginellはこの写真について、「人種的緊張にとらわれない、高揚感や喜びや愛情の瞬間を(ホルムズは)見事に捉えている」と述べている[12]。ホルムズはこの写真について、「世界はこうあるべきだということを伝えており」、自分が撮った全ての写真の中で最も気に入っている、と書いている[12]。この写真は論争を呼ぶ可能性があるとライフの編集者は考え、雑誌の発行人であるヘンリー・ルースに個人的に許可を求めたところ、これは発行すべきだと言われた[13]。発行された写真により雑誌社へ抗議の手紙が何通も送られたが、歌手のハリー・ベラフォンテはすぐに「この国民的雑誌の中でこの写真がヒットした時、障壁が破られるだろう」と述べた[14]。写真によって生じた論争は、エクスタインのキャリアの軌跡に大きな影響を与えた。歌手のトニー・ベネット は「それは全てを変えた…以前は彼のファンは大勢いたが…今や白人社会を怒らせてしまった」と述べ、ピアニストのビリー・テイラーは「報道と写真により彼の前のドアがピシャっと閉められてしまった」と語った[15]

1950年代のエクスタインの録音の中では、1957年にサラ・ヴォーンとデュエットした「Passing Strangers」がマイナー・ヒットとなったが、全英シングルチャートでは初登場で22位を獲得している[1]


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