ビョーク
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ビョーク
Bjork
2022年
基本情報
出生名Bjork Gudmundsdottir
(原語の発音に近いと思われる日本語カナ表記;ビョルク・グズムンズドッティル)
生誕 (1965-11-21) 1965年11月21日(58歳)
出身地 アイスランド レイキャヴィーク
ジャンルロックポップ・ミュージックエレクトロニカオルタナティヴ・ロックダンスジャズトリップ・ホップクラシック
職業ミュージシャンボーカリスト音楽プロデューサー作詞家ソングライター編曲家プログラマー女優
担当楽器ボーカル、フルート、ピアノ、ラップトップ(ノートパソコン)
活動期間1975年 -
レーベルワン・リトル・インディアンエレクトラポリドール、Mother、Smekkleysa
共同作業者シュガーキューブス、タッピ・ティカラス、K.U.K.L.、トム・ヨーク
公式サイト ⇒bjork.com

ビョーク (Bjork、本名ビョーク・グズムンズドッティル (Bjork Gudmundsdottir [?pj?r?k ?kv?dm?nts?to?ht?r] ( 音声ファイル))、OTF1965年11月21日 - )は、アイスランド出身のミュージシャンシンガーソングライター
概要

アイスランドの首都レイキャヴィークで生まれ育つ。ソロで精力的に活動する以前は、オルタナティヴ・ロックバンド「シュガーキューブス」のメイン・ボーカルとして活動していた。

彼女は様々なジャンルの音楽に影響を受けた革新的な音楽を生み出すことで知られ、グラミー賞に12回、アカデミー賞に1回ノミネートされるなど多数の賞を獲得している。

所属するレコード・レーベルのワン・リトル・インディアンによると、2003年現在、彼女は全世界で1,500万枚のアルバムを売り上げている。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第60位にランクインしている[1]

また、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第35位にランクインしている[2]

「ビョーク」とは「カバノキ」、「グズムンズドッティル」とは「グズムンズの娘」を意味する。「アイスランド人の名前」も参照
経歴
1990年以前

1965年11月21日電子技師の父グズムンドル・グンナルソンと会社員の母ヒュドュル・ホイクスドッティルのもと、アイスランドの首都レイキャヴィークに生まれる。父は労働組合のリーダー、母は地元の水力発電開発に反対するといった社会活動家でもあった。両親はビョークが1歳の時に離婚しており、父と母の家を行き来する幼少期を送った。母ヒュドゥルはヒッピー・ムーブメントに影響を受けたボヘミアン的な感性の持ち主であり、ミュージシャンや詩人、ボヘミアンたちと共にアパートで同居生活を送るような人物だった。ビョークは3歳のころには『サウンド・オブ・ミュージック』の劇中歌をすべて唄うことができたという[3]

4歳の時に母が再婚。再婚相手サイヴァルはローカルバンドのギタリストであり、家にはレイキャヴィークのロック・ミュージシャンたちが集うようになる。継父サイヴァルの存在や彼らのジャムを眺めていたことが、幼少期から抱いていた音楽への関心を決定づける。同時期より作曲を始め、5歳(7歳とも)から地元のパラミュジクスコラ・レイキャビクル音楽学校に通いフルートピアノオーボエクラシック音楽を学ぶ。1976年には、フルートを取り入れたセミ・クラシカルな楽曲を母国の風景画家ヨーハネス・キャルバルへ捧げるものとして作曲している[3]

同年、アイスランドのラジオ局がパラミュジクスコラ・レイキャビクル音楽学校のドキュメンタリー番組を制作した際、ビョークは才能に秀でたヴォーカリストとして主役を務め、当時イギリスでヒットしていたティナ・チャールズのディスコ・ミュージック「I Love to Love」を唄っている。これがきっかけでビョークは地元のレーベル「ファルキン」でレコーディングする機会を獲る。母ヒュドゥルの勧めもあり、ビョークは2週間学校を休み、デビュー・アルバムをレコーディングした[3]

1977年、12歳にして本名名義によるアルバム『Bjork』でデビュー。収録曲はアイスランド童謡、継父サイヴァルや彼の音楽仲間によるオリジナル曲、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」のカヴァー[注 1]を歌ったこのレコードで、アイスランド国内にて爆発的な人気を得る。しかしビョーク自身はカヴァーばかりで自身の楽曲[注 2]が1曲しか入っていないこのアルバムに満足していない発言を後に残しており、レコード会社からの2枚目のアルバムの話を断り、天才少女の肩書きと決別する。

さらに、アーティストたるもの新しいものを創造することが使命であり、過去の作品を演奏することの多いアカデミックな音楽教育に疑問を呈する発言をしている。その後アイスランドにも訪れたパンクの波に影響され、13歳で髪を短く刈り込み眉をそり落として「スピット・アンド・スノット」というパンクのガールズバンドを同級生と結成。10台半ばには「エクソダス」というジャズ・ファンクのバンドを結成し活動する中で、さまざまなパートを担当する。エクソダスのメンバーとして活動するさなか、対バンした「タッピ・ティカラス」のエイソール・アルナルドスに見込まれ、同バンドへ加入。アイスランド国内での知名度を得る[3]

1983年にタッピ・ティカラスが解散。同年、地元のラジオ番組に出演した際、同番組で顔を合わせたミュージシャンたちと共に新たなバンド「K.U.K.L. (クークル)」を結成。ツイン・ボーカルであるこのバンドは1984年に『ジ・アイ』、1985年にアルバム『Holidays in Europe』と2枚のアルバムをリリースし、イギリスのパンク・バンド「クラス」と共にヨーロッパ・ツアーも行った。やがて地元レイキャヴィークの音楽仲間であり恋人のギタリスト、ソー・エルドンとの子を身籠る。妊娠7ヶ月目まで活動を続けたものの、メンバー数人の飲酒が祟りK.U.K.L.は解散する。この際、ビュークはショックで取り乱し何日も泣き続けたという[3]

1986年、ソー・エルドンと結婚し、6月8日に息子シンドリを出産。同日、ギター・ポップ・バンド「シュガーキューブス」を夫のソー、K.U.K.L.のメンバーだったアイナール・オルンらと共に結成。彼らと立ち上げたレーベル「バッド・テイスト・リミテッド」からデビューした[3]。英語で発表した楽曲はアイスランドのみならず英語圏でも注目を集めて人気インディーズ・バンドとなる。

同年、アイスランド国内にて息子シンドリの育児をこなしながら、グリム童話を題材にした映画『ビョークの『ネズの木』?グリム童話より』にて主演を果たしている。

1990年にはシュガーキューブスでワールド・ツアーを開催し、来日公演も行った。
1990年以降


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