ビョルヴィカ
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ビョルヴィカ地区ビョルヴィカ地区の開発計画。高速道路や港湾の跡地に住宅などが建ち、高速道路は入り江を横断する沈埋トンネル(ビョルヴィカトンネル、2010年5月開通)に移される

ビョルヴィカ(ビョルヴィーカ、ノルウェー語: Bjorvika)はノルウェーの首都オスロのセントルム区(Sentrum、「中央区」)にある臨海地域。オスロ・フィヨルドの湾奥の入り江の一つに面した地区で、東は1624年の大火以前にオスロの町があったガムレビェン地区 (Gamlebyen) に、西は現在のオスロ中心市街地の南の岬に建つアーケシュフース城に挟まれている。ビョルヴィカの入り江には北からアーケル川 (Akerselva) が、東からアルナ川 (Alnaelva) が流れ込んでいる。

ビョルヴィカの入り江の北にはオスロ中央駅があり、入り江は鉄道高速道路に囲まれた港湾地区となっていた。しかし2000年代から港湾施設を撤去してのウォーターフロント開発が進められている。ビョルヴィカはオスロの文化の新たな中心となることが意図されており、2007年には国立のオスロ・オペラハウスが移転した。2013年にはムンク美術館とステネルセン美術館がビョルヴィカの新たな美術館(ムンク/ステネルセン、Munch/Stenersen)へ移転することになっている。ビョルヴィカの入り江の海岸線に沿って走っていた高速道路E18号線は、入り江の中央を沈埋トンネルで横断するようにルートが変更されることになっており、今まで都心と入り江の間に立ちふさがってきた高速道路は撤去され、跡地に集合住宅などが建つ計画となっている。
地名の由来

古ノルド語では「Bjarvik」(ビャールヴィーク)といった。町を意味する「byr」の属格と、入り江を意味する「vik」が合わさった語で、「町の入り江」となる。
歴史ビョルヴィカ(2004年撮影)。まだ海上コンテナが積まれた港湾地区だった

オスロの町は11世紀頃、アルナ川がオスロ・フィヨルドのビョルヴィカの入り江に流れ込んでいる、戦略的にも交易上でも重要な位置に建てられた(当時の市街地はビョルヴィカの東の、現在のガムレビエン地区にあたる)。1100年には司教座になり、1300年頃には人口は3,000人に達した。アーケシュフース城の建設は1299年に始まっている。当時のオスロは木造の家屋が立ち並んでおり、6つの教会、3つの修道院、王の館と司教の館が建っていた。しかし15世紀から16世紀にかけてオスロは衰退した。特に1537年には、デンマーク=ノルウェーでの伯爵戦争終結の結果、宗教改革が進展しカトリックが追放され教会領も没収され、さらにノルウェー王国参事会も廃止されてノルウェーは王国からデンマーク王国の一属州となった。これらの出来事でオスロの経済的基盤は破壊され、度重なる大火もオスロを衰弱させた[1]

1624年の大火の後、国王クリスチャン4世はオスロをアーケシュフース城の付近に移転させ、格子状の街路を整えてレンガ造りの建物を建てさせ、町の名も自らの名にちなみオスロからクリスチャニアへと変えた。クリスチャニアは木材の輸出港として再び繁栄し、新しい町の東にあるビョルヴィカの入り江はオスロ港の中心になった。市民は1801年には8,900人に増えている[1]1917年のオスロの地図のうち、ビョルヴィカの部分

1814年、ノルウェーはデンマークからスウェーデンに割譲され、スウェーデン=ノルウェー同君連合のもとで独自の憲法や議会や政府を持つこととなり、クリスチャニアはノルウェーの政府所在地となった。1840年頃からノルウェーの産業化が始まり、アーケル川沿いに工場が建ち始めた。人口の激増と都市基盤の建設でビョルヴィカは大きく姿を変えていった。1835年に18,000人だったクリスチャニアの人口は1890年には151,000人に増加した。1854年にはクリスチャニアとミョーサ湖を結ぶノルウェー最初の鉄道が開通し、クリスチャニア側の終着駅は当初ビョルヴィカより東のガムレビエン地区に造られた。この駅をより都心に近い場所に伸ばした上で、増加する列車をさばける大きな駅にしようという試みが続けられ、土地買収の上、ビョルヴィカのアーケル川河口をまたぐように「東駅」が1882年に造られた。これが現在のオスロ中央駅にあたる。ビョルヴィカの海側には埠頭が作られ、その上を東駅から分かれた鉄道の貨物線が走るようになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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