ビュート伯爵
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ビュート侯爵
Marquess of Bute

創設時期1796年2月27日
創設者ジョージ3世
貴族グレートブリテン貴族
初代4代伯ジョン・ステュアート(英語版)
現所有者8代侯ジョン・クライトン=ステュアート
相続人なし
推定相続人アンソニー・クライトン=ステュアート閣下
相続資格初代侯の嫡出直系男子
付随称号下記を参照。
邸宅マウントステュアート・ハウス(英語版)
モットー獅子の怒りは高貴なり
(NOBILIS EST IRA LEONIS)
祖先の栄光とともに繁栄す
(Avito Viret Honore)

カウンティ・オブ・ビュート侯爵(: Marquess of the County of Bute)は、イギリス侯爵位。グレートブリテン貴族。通常はビュート侯爵と言及される。スコットランド王ロバート2世の私生児を祖とするステュアート王室の分流が保有する爵位である。この家系は1627年ノバスコシア準男爵位のビュートのステュアート準男爵、1703年スコットランド貴族爵位ビュート伯爵に叙位され、1796年に第4代ビュート伯爵ジョン・ステュアート(英語版)がビュート侯爵に叙された。以降は現在に至るまで、彼の男系男子によって継承され続けている。侯爵家の分家にウォーンクリフ伯爵家がある。
歴史3代ビュート伯ジョン・ステュアート侯爵家の邸宅であるマウントステュアート・ハウス

ステュアート朝の最初のスコットランド王ロバート2世の私生児でビュート(英語版)のシェリフを務めたジョン・ステュアート(John Stewart)を祖とする[1]。彼は父ロバート2世からビュート島アラン島、グレート・カンブレー(英語版)の土地を与えられた[2]。顔色が黒かったので「ブラック・ステュアート」の異名をとった[2]。ビュートの土地については1400年のロバート3世の勅許状によっても保証され、ビュートのシェリフを世襲することも確認された[2]。スコットランド女王メアリーの時代に『Stuart』のスペルを採用するようになった[2]

子孫でビュートのシェリフであるジョン・ステュアート(?-1662)は、1627年ノバスコシア準男爵として(ビュートの)準男爵(Baronet, of Bute)を与えられた。彼はその後スコットランド議会の議員も務めた[3]

その孫である3代準男爵ジェイムズ(英語版)(?-1710)もターベット(英語版)やアーガイルシャーのシェリフ、スコットランド議会の議員、イングランドとの合同交渉のコミッショナーなどを歴任し、1703年4月14日にビュート伯爵(Earl of Bute)を含む3つのスコットランド貴族爵位を与えられた[4]

さらに、3代伯ジョン(1713-1792)は、国王ジョージ3世の信任を背景に1762年から1763年にかけて首相を務め、政党政治から超越した「愛国王」政治を展開しようとしたが、世論の強い非難を浴びて短命内閣に終わった[5]

なお、3代伯ジョンの妻メアリーは彼女自身の権利として、グレートブリテン貴族としてヨーク州ウォートリーのマウント・ステュアート女男爵(Baroness Mount Stuart, of Wortley in the County of York)に叙されている。この爵位は彼女と3代伯の男系子孫に継承を認めたものである[6]

その息子である4代伯ジョン(英語版)(1744?1814)はトーリー党庶民院議員やスペイン大使などを歴任した[7]。彼はまず1776年5月20日にカーディフ城のカーディフ男爵(Baron Cardiff, of Cardiff Castle)に叙された[7]。ついで1796年2月27日にカウンティ・オブ・ビュート侯爵(Marquess of the County of Bute)に陛爵して、侯爵家の始祖となった[7]。この際に併せてウィンザー伯爵(Earl of Windsor)及びワイト島のマウントジョイ子爵(Viscount Mountjoy, of the Isle of Wight)の2つのグレートブリテン貴族爵位を与えられている[7][8]。そのため、彼以降の当主は自動的に貴族院に議席を得ることができた。

初代ビュート侯の長男ジョン(1767-1794)はダンフリーズ伯爵クライトン家の女性相続人エリザベス(1772-1797)と結婚した。ゆえに、夫妻の長男である2代侯ジョン(英語版)(1793?1848)は、母方クライトン家からダンフリーズ伯爵(英語版)(Earl of Dumfries)を始めとする5つのスコットランド貴族爵位を継承している[註釈 1][7]。また、彼の代に勅許を得て家名を「クライトン=ステュアート」に改めた[7][9]

その昆孫にあたる7代侯ジョン・クライトン=ステュアート(1958-2021)はレースドライバーとして活躍した[10][11]

2021年現在、その子である8代侯ジョン(1989-)が当代のビュート侯爵である。
従属爵位・準男爵位

現当主である第8代ビュート侯爵ジョン・ブライソン・クライトン=ステュアートは、以下の従属爵位・準男爵位を保有する[7]

第8代ビュート侯爵(8th Marquess of Bute)
(1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

第13代ダンフリーズ伯爵(英語版)(13th Earl of Dumfries)
(1633年6月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第11代ビュート伯爵(11th Earl of Bute)
(1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第8代ウィンザー伯爵(8th Earl of Windsor)
(1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

第13代エアー子爵(13th Viscount of Ayr)
(1622年2月2日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第11代キンガース子爵(11th Viscount Kingarth)
(1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第8代ワイト島のマウントジョイ子爵(8th Viscount Mountjoy, of the Isle of Wight)
(1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)

第21代サンカーのクライトン卿(21st Lord Crichton of Sanquhar)
(1488年1月29日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第13代サンカー卿(13th Lord Sanquhar)
(1622年2月2日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第13代サンカー及びカムナックのクライトン卿(13th Lord Crichton of Sanquhar and Cumnock)
(1633年6月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第11代カムラーおよびインチマーノックのマウントステュアート卿(11th Lord Mount Stuart, Cumra and Inchmarnock)
(1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

第9代ヨーク州ウォートリーのマウント・ステュアート男爵(9th Baron Mount Stuart , of Wortley in the County of York)
(1761年4月3日の勅許状による創設グレートブリテン貴族爵位)


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