ビモータ
[Wikipedia|▼Menu]

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年8月)
250RR(1975年)

ビモータ(Bimota S.p.a.)はイタリアオートバイ製造販売会社である。目次

1 歴史

1.1 タンブリーニ時代 - 空調設備からオートバイ製造へ

1.2 マルティーニ時代 - 黄金期

1.3 マルコーニ時代 - 倒産

1.4 ロビアーノ時代 - 復活

1.5 合弁企業の設立


2 製品の特徴

2.1 HBシリーズ

2.2 SBシリーズ

2.3 KBシリーズ

2.4 DBシリーズ

2.5 YBシリーズ

2.6 テージシリーズ

2.7 BBシリーズ

2.8 Vデュエ


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

歴史
タンブリーニ時代 - 空調設備からオートバイ製造へ Bimota HB1

ヴァレリオ・ビアンキ(Valerio Bianchi)、ジュゼッペ・モーリ(Giuseppe Morri)、マッシモ・タンブリーニ(Massimo Tamburini)の3人によって、当初は空調設備の会社として1966年リミニにて設立された。会社名の由来は、3人の姓の綴りから最初の2文字ずつを組み合わせたもの(BI-MO-TA)であった。創立者の一人であり根っからのオートバイマニアであったタンブリーニの趣味がきっかけで、会社の事業としてもオートバイに関わるようになった。

タンブリーニは空調設備の仕事でも馴染んでいたパイプ加工の技術を活かし、1972年に趣味のオートバイレースで大破した自らのホンダ・ドリームCB750FOURフレームから作り直した。これが後のHB1の原型であり、ビモータの第1号車でもあった。この車両が評判になり、1973年にビモータ・メカニカとしてフレーム・ビルダーの業務を本業とは別に開始した。なお、この頃には創業者の1人であったビアンキは既に会社を去っていた。 Bimota YB3

最初期の業務は主に日本車向けのスペシャルパーツの製造販売やレース用フレームの製作供給であり、パトンやモルビデリ、ハーレーダビッドソン(アエルマッキ)などのレースチームがビモータ製フレームを使った。ビモータのフレームを採用したレースチームが活躍し、1980年にはヤマハ市販レーサーTZ350のエンジンを搭載したYB3が世界GPの350ccクラスで優勝したことでその名を広め、本格的に市販車を発売する頃には空調設備の業務をやめて完全にオートバイ製造会社へ転向した。

この時代のビモータのフレームは、鋼管製が主で、ドライブスプロケット軸とスイングアームピボットを同一線上に配置する「コアキシャル・スイングアーム」(同軸ピボット・スイングアーム)や、ヘッドパイプを車体後ろ側からだけでなく前後左右から支持するといった、独自の発想による特徴的な構造を採用していることが多い。
マルティーニ時代 - 黄金期

1983年にタンブリーニが会社を去ると、ドゥカティから移籍してきたフェデリコ・マルティーニ(Federico Martini)がチーフエンジニアとなった。同年のミラノショーではハブセンター・ステアリングなどを採用した革新的な試作車テージを出品するが、これが市販間近との誤解を生んで既存車種の買い控えが起こり、結果として1984年にビモータはイタリア政府の管理下に置かれるほどの経営危機を迎えた。だが1985年ドゥカティからのエンジン供給を受け開発されたDB1を発売すると高い評価を受け、経営危機を脱するのに充分な収益を上げることになった。

1986年末にヤマハとのエンジン供給契約がまとまると、1987年には従来のビモータにはなかったアルミニウム合金製ツインスパーフレームFZ750のエンジンを搭載したYB4RでTT-F1世界選手権に初参戦し、バージニオ・フェラーリが3勝してタイトルを獲得した。さらに、この車両を基にした公道用市販車YB4E.I.を1988年に発売した。折からのレーサーレプリカブームやプラザ合意以後の円高政策も追い風となり、YB4やDB1の日本での販売台数が他国に比べて飛躍的に伸びる結果となった。
マルコーニ時代 - 倒産 マントラ

1989年にマルティーニはジレラに移籍し、ピエルルイジ・マルコーニ(Pierluigi Marconi)がチーフエンジニアとなった。1990年には、マルコーニが学生時代から関わっていたテージの公道用市販車版であるテージ1Dをコローニェショーで発表して技術的に注目され、マルティーニ時代からのDBシリーズやYBシリーズを着実に育てあげるなど、精力的に活動した。しかし一方で、1993年には創業者で最後まで残っていたモーリが去り、テージ1Dが商業的な成功を収めないまま1994年に生産終了すると、その頃を転機に、ビモータの経営方針に変化が訪れた。

モーリが去った後の新経営陣は、高品質ながら少数生産というそれまでの方針を改め、商業的成功を目標に生産数増加を目指し、それまでのビモータとは違った路線の車種も充実させるようになった。従来通りの路線では、ヤマハとのエンジン供給契約が切れた後に、スズキとの協力関係のもとでSB6を発売し、単一車種としてはビモータ最多の販売台数を記録し、工場を拡張するほど販売が好調であった。新たな路線としては、当時人気が出始めた大型ネイキッドとしてDB3マントラを発売し、以前は参入を否定していたシングルスポーツのジャンルにもBB1スーパーモノを投入した。だがSB6とは違い、DB3とBB1は商業的には成功せずに終わった。 500Vデュエ

また、テージ1Dなき後の技術と独自性を象徴するものとして、ビモータは1996年コローニェショーにて500Vデュエを発表し、翌1997年に発売した。ビモータ初の自社開発エンジンとなる500cc2ストロークV型2気筒を搭載して「全ビモータ製」を謳った500Vデュエは予約が殺到するほどの前評判だった。しかし、実際に発売されるとシリンダー内直噴インジェクションの技術的問題が表面化して商業的な失敗を招き、ビモータは大きな負債を抱えた。この失敗で1998年には工場はほとんど稼動しない状態に陥り、この時期にマルコーニを含めた多くのスタッフがビモータを去った。

1999年に、ラベルダを復活させた実績を持つフランチェスコ・トニョン(Francesco Tognon)のもとで生産を再開し、マルコーニが残したSB8Rの販売で復活を目指した。2000年には、リーバイスがスポンサーとなって、SB8Rのホモロゲーション車種であるSB8Kで世界スーパーバイク選手権に参戦し[1]、アンソニー・ゴバートのライディングにより出場2戦目で早くも優勝しその技術力の高さを見せつけたが、リーバイスがシーズン途中で撤退してしまいチームは空中分解した。市販車のSB8Rも商業的な成功には繋がらず、会社は倒産に至った。
ロビアーノ時代 - 復活 Vyrus 984 C3 2V

2003年に、イタリアの資産家ロベルト・コミーニ(Roberto Comini)が以前の本社や工場を丸ごと買い取り、企業活動を再開した。マルコーニの下で働き、Vデュエのデザインなども担当したセルジオ・ロビアーノ(Sergio Robbiano)がチーフデザイナーとなった。2004年には既存のSB8の部品を基に新たなSB8Kの派生版を生産開始し、2005年にはロビアーノのデザインによるDB5と、ビモータ初のOEM車となるテージ2Dを発売した。DB5にはクロモリ鋼管製トラス構造に、アルミニウム合金を削り出したピボットプレートなどと組み合わせた複合型フレームを採用した。従来のビモータの印象を受け継ぎながら新たな意匠をつくりだしている。また、マルコーニ時代後半のように大量生産を目指さず、少数生産で高品質に力を入れるという初期のビモータに通じたものづくりも、新生ビモータの特徴となっている。

2006年にはDB5をネイキッド化したDB6デリリオと、OEMでなく自社開発となるテージ3Dを発表した。2008年にはテージ1D以来のドゥカティ製水冷エンジンを搭載したDB7を発売した。
合弁企業の設立

2019年時点では、会社は経営不振で休眠状態に陥っていた。同年11月6日、川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニーは同社欧州法人とビモータで新しい合弁会社を設立すると発表。カワサキ側は、ビモータ向けに専用開発したエンジンを供給し、バイク本体の開発から販売までを引き受けるとしている[2]
製品の特徴

主に、大手メーカーのエンジンを自社製のフレームに搭載するという方法で製作したオートバイを発売する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef