ビドゴシチ住民殺害事件
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ビドゴシチ住民殺害事件(ビドゴシチじゅうみんさつがいじけん)は、1939年9月ナチス・ドイツによるポーランド侵攻開始から10日間のうちにポーランド西北部の都市ビドゴシチ(Bydgoszcz)とその周辺で発生した住民殺害事件。大きく分けて次の2つの事件から成る:
9月3日に起こった、ポーランド軍およびポーランド系ポーランド人住民と、ドイツ系ポーランド人住民の間で起こった戦闘・殺害事件。戦時中のナチスの執拗なプロパガンダにより一般にブロンベルク血の日曜日事件として知られる(第1の事件)。

9月9日から9月10日にかけて起こった、ドイツのさまざまな組織によるポーランド系ポーランド人住民虐殺事件(第2の事件)。第1の事件よりはるかに規模が大きい。
目次

1 歴史的背景

2 第1の事件

3 第2の事件

4 1939年9月のポーランドにおける犠牲者

4.1 ドイツ系住民

4.2 ポーランド系住民


5 その後の調査

6 その他

7 参考文献

8 関連項目

歴史的背景 1939年ポーランドビドゴシチ(Bydgoszcz, ドイツ名ブロンベルクBromberg)は西北部に位置する。

ビドゴシチ市周辺の地域は第一次ポーランド分割(1772年)まではポーランド領であり、第一次世界大戦講和条約として締結されたヴェルサイユ条約によって1920年2月に再度ポーランド領となった。しかしポーランド分割よりもはるか昔、何世紀も前から、ポーランド系住民とドイツ系住民は一つの共同社会を形成し、平和な関係を築いていた。

ドイツ系ポーランド人の多くは第一次世界大戦後にポーランド領となった地方から離れてドイツへ移住した。1910年国勢調査ではビドゴシチの全住民154,169人のうち68.4%にあたる105,504人がドイツ系であったが、1931年の国勢調査では同郡の全住民175,339人のうちドイツ系住民はその10.7%の18,793人にまで減少していた。[1]ドイツ系住民の急激な減少は、高等教育を受けたドイツ人の専門家(たとえば医師や弁護士など)がいなくなればポーランド新国家は不安定になるというドイツの国家主義プロパガンダの影響による部分もある。少数民族の諸権利に関するヴェルサイユ条約の付帯事項はポーランドによって完全に承認されたが、1934年国際連盟ソヴィエト連邦が加盟すると、ポーランドはこの少数民族に関する付帯事項の承認を取り消した。しかし、ドイツとポーランドにおける少数民族の諸権利は両国の互いの友好関係に基づき保証されることになった。

1930年代後半になるとポーランドとドイツの関係は悪化し、それに伴いポーランド西部に住むドイツ系少数民族は自分たちがポーランド社会に受け入れられていないと感じるようになった。ドイツ系ポーランド人はポーランド国内で第五列分子と理解されるようになった。

当時のポーランドではドイツ系住民が銃などの火器を所持することは完全に禁止されており、この違反は厳重な処罰の対象となっていたが、ドイツ系住民は自衛団(Selbstschutz)を組織してドイツ本土から大量の銃砲を密輸して秘密裏に保持していたとされている。またドイツ系住民はドイツ本土からスパイを招き入れたり、ドイツ本土に行って反ポーランド破壊活動の訓練をするなどしていた。ナチス・ドイツポーランド侵攻時には、ポーランドに約2,700,000人いたドイツ系住民のうち25%がドイツに直接指揮監督された何らかのドイツ人少数民族組織に所属して多くが第五列活動に関わっておりそのうち82,000人が悪名高い自衛団の構成員だったと推定されている。


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