ビデンデンのおとめ
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1869年に描かれたビデンデンのおとめ

メアリとエリザ・チャルクハースト(Mary and Eliza Chulkhurst)は1100年にイギリスケント州のビデンデンで生まれたと考えられている結合双生児である。広くビデンデンのおとめ(Biddenden Maids)という名でも知られ、肩と腰がつながったまま34歳まで生きたと伝えられている。パンとチーズのくに(The Bread and Cheese Lands)として知られる5つの地所を村に遺贈し、復活祭ごとにそこで得られた利益を元手にして貧しい人々へ食べ物と飲み物がふるまわれた。少なくとも1775年にはビデンデンのケーキと呼ばれる固焼きビスケットがともに供されるようになり、そこには2人のつながった女性の姿が型押しされていた。

食べ物と飲み物は毎年配られていたが、それが知られるようになったのは1605年になってからのことで、この姉妹の物語に至っては1770年以前の記録をたどることができない。そしてビデンデンのケーキに押された女性たちの図柄にはもともとこの姉妹の名が刻まれているわけではなかった。そのためメアリとエリザ・チャルクハーストという名前が再び人々の口にのぼるのは19世紀初めまで待たなければならない。
異説

歴史家のエドワード・ヘイステッドは、ビデンデンのおとめたちの物語を民俗学的には作り話だと軽くあしらい、ビスケットに押された絵柄も本来は、貧しい2人の女たちであり、身体が繋がった双子の物語はそれを伝えるために考えだされた「土俗の昔話」だと主張した。


有名な歴史家であるロバート・チェンバースもこの伝説が事実である可能性を認めつつ、それはありそうにないことだと述べている。19世紀に入ってもこの伝説の大本に迫ろうとする研究はわずかなものだった。こうした歴史家たちの疑いの眼とは裏腹に、その頃にはこの伝説はますます有名になっており、復活祭の日ともなると、ビデンデンの村は騒々しい旅行者たちで溢れかえった。20世紀も間近になると歴史家たちは、再び双生児の物語の起源を調べはじめる。その結果、つながっているのは腰の所だけだったとはいえ、双子たちが本当に実在したということがわかり、メアリとエリザが生きたのも12世紀ではなく16世紀のことだった。


1907年、パンとチーズのくには住宅地として売りに出されたため、毎年ふるまわれる食事にも余裕がでてきた。ビデンデンの夫を亡くした妻たちや年金で暮らす人々には復活祭になるとパンとチーズが紅茶を添えて供され、クリスマスにはお金が配られるようになる。そしてそこを訪れる人々にとってお土産の品になったビデンデンのビスケットは、今も村の貧しい人々への贈り物のままである。

伝説

言い伝えによれば、メアリとエリザ・チャルクハーストが生まれたのはケント州ビデンデンのわりと裕福な家庭だった[1] [2] 。1100年のことである[1] [3] 。2人は肩と腰の両方がつながっていたという。そのままの姿で成長した双子は「時々、取っ組みあいになるほどの喧嘩をしていた」といわれている[4]。34歳のときメアリは突然亡くなり、医者から身体を切り離す手術を勧められたエリザはきっぱりと断った。「一緒にやってきたんだから、一緒にやっていくわ」という言葉を残して、エリザはその6時間後に息を引き取った[5]。遺言によって、姉妹がビデンデンに有していた20エーカーほどの土地はその区域にあった教会へと譲り渡され[6]、毎年の復活祭にはそこから入る(2人が亡くなったときには年6ギニーといわれる)収益をもとにパンとチーズ、ビールが貧しい人々へ分け与えられた[5] 。そのときからこの村はパンとチーズのくにとして知られるようになったのである[5]
歴史ビデンデン教会

ビデンデンの教区委員たちはパンとチーズのくにでの慈善事業を永らえさせてきた。1605年の記録では、「復活祭においては、我々の牧師の手により教区に住まう人々へパン、チーズ、ビスケットがふるまわれ、さらにはビールの樽がいくつか持ち込まれ、栓が抜かれる習わし」があったが、カンタベリー大主教の訪問を受けて延期となった。かつて行われたこの催しで「粗野な人間がもとで大変な騒動がもちあがり、そのとき我々は一時も気の休まることがなかった」ためである[5]。1645年には教区司祭ウィリアム・ホーナーがパンとチーズのくには教区教会の畑地(教区の司祭に信託される土地)であると述べて、監督下に置こうとした[5] 。こうしてパンとチーズのくには教役者倫理委員会[note 1]の審議に附されたが、1649年に至って、ついにこの慈善事業を肯定する評決が下った[5] 。ホーナーは1656年に財務裁判所にも提訴しているが、やはり彼の望む結果にはならず、施しのために土地はその教区委員の裁量に任され、毎年の復活祭の行事は続いたのだった[5][7]。一連の訴訟に立ち会った人間が証言するには、そこで土地は「その身体を共にして育った」2人の女性から譲渡されたものだという陳述があった。しかし彼女たちの名前が挙がることはなかった[8]

1861年には例年の施しがこの「無秩序と不作法」のためにカンタベリー大主教まで裁判に関わることになるのではないかと危ぶまれた。そこで施しは教会内ではなく、建物の車寄せの所で行うこととなった[9][note 2]

1770年には、年ごとの施しが復活祭の勤行が終わった正午過ぎにただちに行われたとの記録がある。パンとチーズのくにから上がる収入は年20ギニーに昇り、以前と比べるとはるかに多くの食料を供することができた[12][13][note 3]。この頃になるとパンやチーズ、ビールとともに「ビデンデンのケーキ」として知られる固いロールパンが教会の屋根から人々にまかれるようになった[4][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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