ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー
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ジャニス・ジョプリン
Janis Joplin

基本情報
出生名Janis Lyn Joplin
生誕1943年1月19日
出身地 アメリカ合衆国
テキサス州 ポートアーサー
死没 (1970-10-04) 1970年10月4日(27歳没)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ロサンゼルス
ジャンルサイケデリック・ロック[1]
ブルースロック[2]
職業ミュージシャン
担当楽器ボーカル
ギター
活動期間1966年 - 1970年
レーベルコロムビア・レコード
共同作業者ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー
公式サイト ⇒janisjoplin.com
ジャニス・ジョップリン(1969年)全盛期のジャニスのコンサート広告(1969年)

ジャニス・リン・ジョプリン[注 1](Janis Lyn Joplin、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカ合衆国ミュージシャン1960年代後半のアメリカにおけるカウンター・カルチャー時代を象徴する破滅型の女性ロック・シンガーであった。27クラブの1人。代表曲は『Move Over(ジャニスの祈り)』。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第28位[3]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第46位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第17位[4]
生涯

父のセス(1910?1987)はテキサコに勤める労働者で、母ドロシー(1913?1998)と本人、マイケル(1951?)とローラ(1949?)の2人の妹弟を含む5人家族であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスオデッタビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックに関心を持つようになった。しかし、大学在学中男子学生によって非公式に行われたミスコンに対するいわゆるブスコンでトップに選ばれ、これにショックを受けそのまま大学を中退した。

大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年サンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる[5]ヘロインアンフェタミンなどの薬物の他に、アルコールも大量に摂取していた。

当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンのイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の妹、ローラが著わした手記『Love, Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。ジョプリンとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー(1966/1967年頃)

一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーに参加する[5]。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表した。このバンドは演奏能力が不足していることでも知られ、売れ行きは不調だった。

しかしジャニスは、モントレー・ポップ・フェスティバルにおける歌唱で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。


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