ビッグ・ショー_(プロレスラー)
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「ザ・ジャイアント」はこの項目へ転送されています。その他の「ジャイアント」とは異なります。

ポール・ワイト

プロフィール
リングネームポール・ワイト
ザ・ジャイアント
ビッグ・ショー
本名ポール・ドナルド・ワイト二世
ニックネーム世界最大のアスリート
大巨人
身長213cm
体重200kg
誕生日 (1972-02-08) 1972年2月8日(52歳)
出身地 アメリカ合衆国
サウスカロライナ州
エイキン
所属AEW
スポーツ歴バスケットボール
トレーナーラリー・シャープ
WCWパワープラント
武藤敬司
デビュー1995年
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ポール・ワイト(Paul Wight、1972年2月8日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラー

本名、ポール・ワイト二世(Paul Donald Wight U)。サウスカロライナ州エイキン出身。フロリダ州タンパ在住。

WCW在籍時にはザ・ジャイアント(The Giant)、WWEではビッグ・ショー(Big Show)のリングネームで活動していた。その体の大きさで有名なレスラーで身長213cm、体重200kgの体躯を誇り、世界最大のアスリートや大巨人の異名を持つ[1]
来歴
WCW

大学まではバスケットボールの選手として活躍。ハルク・ホーガンにスカウトされ、ラリー・シャーププロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」で7か月間に渡ってトレーニングを積む。その後、WCWのトレーニング機関であるWCWパワープラントでの再トレーニングを経て、1995年にプロレスデビューを果たす。

WCWでの公式デビュー戦(10月29日)でいきなりホーガンからWCW王座を奪取する快挙を見せた。WCW時代のリングネームはザ・ジャイアントで、アンドレ・ザ・ジャイアントの息子と称していた。翌年4月にはリック・フレアーを破り二度目の王座を獲得したが、同年7月よりWCWでnWoが結成されるとホーガンに王座を奪われた。自身もnWoに加入、程なくして脱退後は正規軍側の主力として活躍を見せるも再びnWoに加入。

提携先の新日本プロレスにも招聘され、巨体ながらコーナーポストからのミサイルキックを放つなど、運動能力の高さを見せていた。
WWF / WWE

1999年2月にWWF(現在のWWE)に移籍。当時ヒールとしてストーンコールド・スティーブ・オースチンと抗争中であったビンス・マクマホンの刺客として、突如リングの下からマットを破って現れるという衝撃のデビューであった。WWFに移籍後、リングネームを"ビッグ・ショー" ポール・ワイトに変更。このニックネームが後に正式なリングネームとなり、現在も用いている。このころにはホーガンのパロディを演じるなど、コミカルなキャラクターの一面を見せていたことがある。

10月にはトリプルHザ・ロックとの試合を制し WWF世界王座を奪取。ジ・アンダーテイカーとのタッグやビッグ・ボスマンとの抗争後、2000年に体重オーバーを理由に一時OVW行きを宣告された。

2002年の番組分割時にRAWにドラフト6位で指名されるが、同年秋に当時GMのエリック・ビショフとの衝突によりSmackDown!へ移籍する。ポール・ヘイマンと組んでブロック・レスナーを破りWWE王座を奪取。

2005年2月5日のテレビショーさいたまスーパーアリーナ大会「ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR」において、観戦していたを、「日本のビッグ・ショー」と公言して意気投合。同年4月3日WrestleMania 21において曙とスモー・マッチを実現。7月のハウス・ショーさいたま大会ではタッグも組んでいる。

2005年のドラフトにてRAWに移籍。タブー・チューズデイではケインと組み、世界タッグ王座を獲得した。

2006年スピリット応援団に世界タッグ王座を奪われるとケインと仲間割れ、その頃ケインは「5月19日(メイ・ナインティーン)」という言葉を聞くと状況に構わず逆上してみせるようになり、これをアングル化してケインと抗争。その後WWE vs ECWの抗争が始まると、WWEを裏切りECWの仲間入りを果たした。
ECW移籍

その後、ECW世界ヘビー級王者ロブ・ヴァン・ダムに挑戦。ロブ・ヴァン・ダムのマネージャーについていたポール・ヘイマンの裏切りを受けて、同王座を獲得。WCW、WWE、ECW全ての世界王座を獲得した唯一の選手となった。ECW入りしてからは、ECW本来の環境に親しみ、流血戦とも真っ向から向き合うようになった。

マクマホン親子の用心棒としてD-Xとも抗争。12月3日の新生ECW初の単独開催PPVディセンバー・トゥ・ディスメンバーの6人参加凶器エリミネーション・チェンバー・マッチボビー・ラシュリーに敗れ王座を失い、直後の12月7日のECWでのラシュリーとの再戦に敗れリングから姿を消す。この裏には以前から苦しんでいた背中の痛みの問題があった。
WWE復帰・2007年 - 2009年

2007年2月末に契約満了に伴いWWEを正式退団。その後、2007年4月27日に米テネシー州メンフィスで行われたハルク・ホーガンの自主興行で復帰するも、レッグドロップからの3カウントで敗北。

2008年2月に行われたノー・ウェイ・アウトにてWWEへ復帰。そのリング上でプロボクサーメイウェザーに顔面を殴られ鼻を骨折させられた このことからメイウェザーとの抗争に入り、WrestleMania XXIVで対戦したがメリケンサックで顎を殴られ敗北した。9月のアンフォーギヴェンヴィッキー・ゲレロを葬ろうとしたジ・アンダーテイカーを殴打してテイカーを失神させた。それによりテイカーとの抗争を開始し、10月ノー・マーシーでも、テイカーに勝利し、トリプルHの持つWWE王座への挑戦権を得るが、王座戦でテイカーの乱入により王座奪取に失敗する。サイバー・サンデーではファンの投票によりラストマン・スタンディング・マッチでテイカーと勝負が決定するが敗れる。その後のスマックダウンで金網戦でテイカーに敗れ抗争は終了する。

2009年のドラフトでRAWへ移籍し、この少し前から対立状態にあったジョン・シナと本格的に抗争を開始する。この抗争はエクストリーム・ルールズで決着がつき、以降はUS王者コフィ・キングストンに狙いを定める。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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