Vic
マジョール広場
州 カタルーニャ州
県 バルセロナ県
コマルカオソナ郡
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度56分0秒 東経2度15分0秒 / 北緯41.93333度 東経2.25000度 / 41.93333; 2.25000座標: 北緯41度56分0秒 東経2度15分0秒 / 北緯41.93333度 東経2.25000度 / 41.93333; 2.25000
ビック(Vic)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県オソナ郡に属するムニシピ(基礎自治体)。ビック平野に位置する。バルセロナの距離は69km、ジローナの距離は60kmであり、その地理的位置からカタルーニャ中央部の中心都市の一つである。
歴史ローマ神殿
ビックは古代にはローマ人からアウサ(Ausa)と呼ばれていた。この名が刻まれたイベリア人の硬貨が、この地で発見された。西ゴート族には、アウソナ(Ausona)と呼ばれた。
8世紀から9世紀、ビックはフランク人とイスラム勢力から切り離された辺境(en)の中にあった。イスラム勢力が侵入した788年にビックは破壊された。のちにかつての1/4だけが再建され、ヴィクス・アウソネンシス(Vicus Ausonensis、ヴィクスとはラテン語で自治都市を意味する)と呼ばれた。この名前からビックの名が生まれた。878年にギフレ多毛伯が市の実権を掌握すると再植民が行われ、司教座の創設のために教区を下位におくのをあきらめた。この後、市はバルセロナ伯とビック司教とに支配された。
1027年のトルジェス(現在のトゥールージュ)での会議で、ビック司教は最初の『神の休戦』(en)を設立させ、貴族らが私的に戦争しないよう働きかけた。
18世紀、市はフェリペ5世の中央集権的政策に対抗した反乱の最初の焦点となった。対立はスペイン継承戦争を引き起こし、その結果カタルーニャは一国家としての自治を失い、スペインの一地方へと転落した。
20世紀初頭、人口は約12,000人だった。1992年、ビックはバルセロナオリンピックのローラーホッケー競技開催地となった。
ビックの教会史ギフレ多毛伯
司教座はタラゴナ大司教座に属している。北はジローナ県、東はジローナとバルセロナ、南部をバルセロナとタラゴナ、西をタラゴナとリェイダが面している。4つのカタルーニャの県の中にビック司教座はあるが、大部分はバルセロナ県の中である。
キリスト教が導入されたのは非常に早いというのは疑いはなく、アウサの殉教者としてデキウス帝時代に記録が残された。タラコネンシス聖座の最古の記録におけるビック司教は、非常に早い記録のうちの一つである。しかし、516年までこの名は記載されなかった。516年は初代ビック司教であるビックのシニディウスがタラゴナ・ジローナ地方議会において助力を受け名のったものだった。6世紀の司教アクイリヌスは第3回トレド公会議に出席した。司教エステバンはエガラ(現在のタラサ)での第4回トレド公会議に出席した。司教ドミヌスは第6回トレド公会議、司教ゲリクスは8回トレド公会議に出席した。Wisefredusは自分の名代を13回トレド公会議へ派遣し、15回と16回には自身で出席した。サラセン人らの侵攻前に、この司教区はアウソナでの教会の歴史を閉じた。
ビックの再征服は9世紀のフランク王ルートヴィヒ1世の時代に始まった。彼はサルダーニャ伯ボレイに対し自治政府を任せ、全ての教会に関する事例はナルボンヌ大司教の指示の下に置かれた。