この項目では、雑誌について説明しています。
遊園地のアトラクションについては「びっくりハウス」をご覧ください。
ドラえもんの道具については「ドラえもんのひみつ道具 (1979年のテレビアニメ は-ほ)#ビックリハウス」をご覧ください。
ビックリハウス
ジャンルサブカルチャー
刊行頻度月刊誌
発売国 日本
言語日本語
定価480円
出版社パルコ出版
編集長高橋章子
元編集長萩原朔美
刊行期間1975年12月(1975年1月号) - 1985年10月(1985年11月号)
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『ビックリハウス』は、1974年から1985年まで発行された日本のサブカルチャー雑誌である。 安藤紘平は「僕は大林宣彦監督が自主映画作家時代に撮った『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)に衝撃を受けて、榎本了壱、萩原朔美と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『ビックリハウス』という雑誌になりました」と述べている[1]。 1975年、劇団 天井桟敷出身の榎本了壱と萩原朔美が編集プロダクションである、株式会社エンジンルームを設立。萩原が代表取締役に就任し、雑誌ビックリハウスを創刊。創刊当初は渋谷のタウン誌と同等の内容に過ぎなかった[2]。 その後、読者を「ハウサー」と呼称し、萩原が「ビックリハウスは読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」が表明した通り、読者からの投稿が雑誌の柱となり、数々のコーナーが作られた結果、パロディ雑誌として一時代を築いた。1977年から高橋章子が編集長となり、1985年の休刊まで勤めた。 80年代的なキッチュ、ユーモア、パロディをモットーにした面白雑誌で10代後半の読者に圧倒的な支持を集め、当時の若者文化に多大な影響を与え、常連投稿者の中には一般人時代のタレント、歌手、俳優、作家、文化人等が多くいた[3]。 読者主導型のコンテンツの先駆けとして、2016年時点の2ちゃんねるやニコニコ動画等の発信者がくだらないことを実行する文化との類似性を見出せるとミュージシャンの吉田アミは評していた[2]。 月刊誌として、全130号を発刊し1985年に休刊。2004年、「生誕30周年記念」と称し1号限定で復刊した。
概要
主な連載
ビックラゲーション
「バスが道を間違えた」などといった、日常の驚いた出来事を投稿する。単純ながら飽きの来ないコーナー。ビックリハウスがマイナーなのをいいことに、メジャーな雑誌にレイアウトや体裁などを丸々コピーされて、「偽物」が出回るほどだった。
全流振
全国流行語振興会。はやらせたい言葉(自分の周りではやっている言葉ではない)を投稿し、編集部の認定を受け、最終的には広辞苑への掲載を目指す。ここ出身の当時の流行語は意外と多く、「えびぞる」、参ったの進行形「まいっちんぐ」、サヨナラとバイバイのミクスチュア「バイなら」などはここの発祥。
筆おろし塾
要は毛筆書道だが、字の上手下手ではなく、書かれた文字の内容で勝負する。まじめな書道風と「妻と猿が」などシュールな言葉のギャップを楽しむ。
名刺対決
上記「筆おろし塾」に類似。本物の名刺の裏に一発ギャグフレーズを書き、東軍・西軍の対戦形式でどちらが面白かったかで勝負する。同程度の面白さとされたときは裏側(本来の表)の名前、肩書きも選考に含める。『とんねるずのオールナイトニッポン』にも同内容のコーナーがあった。とんねるず自身も短期間ながら連載を持っていたので、そのあたりが関係していると思われる。
面コラ
面白コラージュ。フォトコラージュを投稿する。コラージュではない面白い写真を募集する「スナオカメラ」というコーナーもあった。
御教訓カレンダー
一言フレーズのパロディをカレンダー形式にして掲載。これは、三日坊主めくり御教訓カレンダーとして現在も毎年発行されている(2024年版で終了予定)。
おもこ
「思い込み」。「割り箸を煮るとメンマになると思っていた」のような、子供の頃、勝手に思い込んでいたことを告白する。
ハジラ
投稿規程を守っていない、あるいは趣旨とかけ離れた投稿をする者をさらし者にして戒める。
エンピツ賞
年に2回開催された短編小説賞。鮫肌文殊や窪田僚がデビューした契機となった。