ビタリ・クリチコ
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ビタリ・クリチコ
基本情報
本名ビタリ・ウラジミロビッチ・クリチコ
В?тал?й Володимирович Кличко
通称ドクター・アイアンフィスト
階級ヘビー級
身長200cm
リーチ203cm
国籍 ウクライナ
誕生日 (1971-07-19) 1971年7月19日(50歳)
出身地 ソビエト連邦
キルギス・ソビエト社会主義共和国
ベロヴォーツク
家族ウラジミール・クリチコ(弟)
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数47
勝ち45
KO勝ち41
敗け2
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獲得メダル
 ウクライナ
男子 ボクシング
世界ボクシング選手権
銀1995 ベルリンスーパーヘビー級

ビタリ・クリチコ(英語:Vitali Klitschko, ウクライナ語: В?тал?й Кличко, IPA:[?i?talij kl?t??ko], 1971年7月19日 - )は、ウクライナの政治家で、現キエフ市長、元キックボクサー、元プロボクサー。元WBO世界ヘビー級王者。元WBC世界ヘビー級王者。現在、ウクライナドイツに在住。体育学博士号を獲得(キエフ体育大学)した格闘家であり、ニックネームは「鉄拳博士」。弟のウラジミール・クリチコもまたプロボクサーで、元WBAIBF・WBO世界ヘビー級スーパー王者[1]。ウクライナの政党「ウクライナ民主改革連合(UDAR)」の党首。2012年ウクライナ最高議会選挙に当選した。目次

1 来歴

1.1 キックボクサー時代

1.2 アマチュアボクサー時代

1.3 プロボクサー時代

1.4 政治家として


2 戦績

3 獲得タイトル

4 脚注

4.1 映像資料


5 関連項目

6 外部リンク

来歴

1971年7月19日、ソビエト連邦キルギス社会主義共和国ベロヴォーツク村に生まれた。父ヴォロディーミル・クリチコはソ連空軍の軍人であったが、クリチコ家は第二次世界大戦後にウクライナのチェルカースィ州から中央アジア流刑された家柄であった。ビタリによれば、クリチコ家の親戚の多くはソ連政権によってホロドモールで餓死したという[2]
キックボクサー時代

1989年、18歳でジェームズ・ワーリングWKAキックボクシングルールで対戦。この時点での両者の戦績はワーリング18勝1敗1分11KO、ビタリ17勝2敗。試合体重はワーリング87kg、ビタリ92kg。ビタリの国籍はソ連。判定2-1、スプリットデシジョンで敗北。

1993年11月、WAKO世界キックボクシング選手権大会男子ライトコンタクト部門89kg超級に21歳でロシア代表として出場。決勝でイギリス代表のペレ・リードと対戦。2ラウンドにスピニングキックを顎に受けてノックアウト負け[3][映像 1]

1993年11月27日、全日本キックボクシング連盟興行「EVOLUTION STEP-8」に参戦。WKAキックボクシングルール(ローキック禁止および2分5R制)で柳澤龍志と対戦、5度のダウン(3Rにパンチで2回、4Rに2回、5Rにバックブローで1回)を奪い、3-0の判定勝ち。当初は通常のキックルールで対戦が予定されていたが、試合直前にクリチコ陣営の強い要望でローキック禁止に変更された。

キックボクシングではアマチュアで2度、プロで4度、通算6度の世界タイトルを獲得するが、プロ活動を国際式のみへ路線変更する。
アマチュアボクサー時代

1995年、ミリタリーワールドゲームズのスーパーヘビー級で優勝、初のタイトルを獲得した。同年、AIBA世界ボクシング選手権で銀メダルを獲得。

1996年、ドーピングテストでステロイドの使用が発覚。クリチコは足の負傷を癒すために使用したと主張したがウクライナナショナルチームからはずされたことで、プロへの転向を決める。アマチュアボクシングの戦績は195勝15敗であった。
プロボクサー時代

ドイツのボクシングプロモーション会社ウニヴェルズムと契約を結ぶ。

1996年11月16日、プロデビュー。デビューから24連勝(24KO)を果たした。

1999年6月26日、ハービー・ハイドと対戦WBO世界ヘビー級王座を獲得。その後2度の防衛に成功した。

2000年4月1日、クリス・バードアメリカ)と対戦、試合を支配しておりポイントでもリードしていたが肩を負傷してしまい、9回終了時に試合を続行出来ないことをセコンドに伝え、初黒星となる棄権によるTKO負けを喫し、3度目の防衛に失敗し王座から陥落した。試合後、肩の負傷は回旋筋腱板損傷と診断された。

2003年06月21日、王座陥落後5連勝(4KO)でWBC世界ヘビー級王者レノックス・ルイスイギリス)に挑戦するも、6回TKO負けで王座獲得に失敗した。

2004年1月、契約が切れる4月をもってウニヴェルズムと再契約しないことを通知するが、ウニヴェルズムは契約違反であると主張してクリチコ兄弟を告訴した。訴訟は2009年11月まで続いたが最終的にクリチコ兄弟の勝訴で結審した。

2004年4月24日、ルイスが引退、空位になったWBC世界ヘビー級王座決定戦でコーリー・サンダース南アフリカ)と対戦し、8回TKO勝ちで王座獲得[4]。その後1度の防衛に成功した[5]

2004年12月11日、ダニー・ウィリアムズと対戦、8回TKO勝ちを収める。12月26日の選挙でウクライナ大統領に当選するヴィクトル・ユシチェンコオレンジ革命への支持を表明するために腰にオレンジ色の布を身につけて試合をした。

2005年11月12日、WBC世界ヘビー級暫定王者ハシーム・ラクマン(アメリカ)との統一戦が予定されていたが、11月3日にクリチコがロサンゼルスでのスパーリング中に右膝前十字靭帯を断裂し中止となる[6]


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