ビセンテ・アランダ
Vicente Aranda
2011年のアランダ
本名Vicente Aranda Ezquerra
生年月日 (1926-11-09) 1926年11月9日
没年月日 (2015-05-26) 2015年5月26日(88歳没)
出生地 スペイン王国、バルセロナ県バルセロナ
死没地 スペイン、マドリード州マドリード
国籍 スペイン
職業映画監督・脚本家
活動期間1964年-2015年
配偶者テレサ・フォント(再婚)
主な作品
『アマンテス/愛人』
受賞
東京国際映画祭
審査員特別賞
1996年『リベルタリアス/自由への道』
ゴヤ賞
作品賞
1992年『アマンテス/愛人』
監督賞
1992年『アマンテス/愛人』
その他の賞
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ビセンテ・アランダ・エスケラ(Vicente Aranda Ezquerra, スペイン語: [bi?θente a?an?da eθ?kera], 1926年11月9日 ? 2015年5月26日)は、スペイン・バルセロナ出身の映画監督・脚本家・映画プロデューサー[1]。 ゴヤ賞の監督賞には計6度ノミネート(1度受賞)されており、作品賞には1度ノミネート(1度受賞)されている。脚色賞に4度、脚本賞に1度、ドキュメンタリー賞に1度ノミネートされている。カンヌ国際映画祭ではパルムドールに1度ノミネートされており、ベルリン国際映画祭では金熊賞に2度ノミネートされている。1988年にはスペイン映画国民賞を受賞。 国際的な成功をおさめた映画として、1991年のフィルム・ノワール映画『アマンテス/愛人』がある。当初はテレビドラマとして計画されたため、出演者・スタッフともに少人数であり、屋外ロケも少なかった[2]。アランダ作品の常連であるビクトリア・アブリルやマリベル・ベルドゥ、ホルヘ・サンス アランダ家は貧しい大家族であり、ビセンテが生まれる20年前にアラゴン地方からカタルーニャ地方のバルセロナに移住していた[5]。ビセンテ・アランダは1926年11月9日にバルセロナに生まれた[6]。 父親は旅の多いカメラマンであり、アランダが7歳の時に亡くなった。幼少期の1930年代後半にはスペイン内戦が勃発し、アランダ家は敗れた共和派に肩入れしていた[5]。 内戦初期、一家は母親の故郷であるアラゴン地方のペニャルバに疎開したが、この村はアラゴン戦線に近く悲惨な状況であり、内戦が終結していない1938年にバルセロナに戻った[7]。 内戦終結後には多くの時間を地元の映画館で過ごした。母親はアランダが映画館に入り浸るのをこころよく思わず、彼が帰宅するなり、当時の映画に使用されていた消毒剤の匂いを嗅いだ[8]。アランダは義務教育を終えることはなく、13歳の時には家計を支えるために働きはじめた[7]。地元の町で様々な職に就き、1952年には兄のパルミロとともに南米のベネズエラに向かった[8]。ベネズエラへの移住は経済的・政治的理由による[7]。ベネズエラではアメリカの海運業者の貨物技術者として働き、やがてNCRコーポレーションで指揮を執った[9]。 ベネズエラ移住から7年後の1959年にスペインに戻って結婚(一度目)した。 アランダは小説家になることを望んだが、小説家としては芽が出なかった。
人物
経歴