ビスマルク海海戦
炎上する旭盛丸。(大同海運:5,493総トン)
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年3月2日?3月3日?3月4日
場所:ビスマルク海
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
オーストラリア
指導者・指揮官
今村均中将
草鹿任一中将
三川軍一中将
安達二十三中将[1]
中野英光中将[2]
板花義一中将[3]
木村昌福少将
市丸利之助少将[3]ダグラス・マッカーサー大将
ジョージ・ケニー中将
エニス・ホワイトヘッド
ビスマルク海海戦 (ビスマルクかいかいせん、英語: Battle of Bismarck Sea) は[10]、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月2日から3月3日に、ビスマルク海からダンピール海峡[11]にかけての海域で、ダグラス・マッカーサー陸軍大将指揮下の連合国軍ニューギニア・オーストラリア方面部隊が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘のこと[12][13]。 1943年(昭和18年)2月初頭、日本軍はガダルカナル島から撤退し[14]、大本営はパプアニューギニア(ニューギニア島東部)方面に作戦の重点を移した[15][16]。同時期、連合軍も東部ニューギニアで攻勢に出ており[17]、日本軍はニューギニア方面の戦力増強を企図して陸軍・海軍協同の輸送作戦を立案する [18][注釈 3]。日本側の輸送作戦の名称は「八十一号作戦」である[20][21][22]。2月中旬、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、ラバウルの第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)と協定を結ぶ[23]。 日本陸海軍は南東方面の航空兵力をかき集め、輸送船団の上空掩護を実施した[24]。2月28日、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将が指揮する駆逐艦8隻に護衛された日本軍輸送船団(輸送船8隻)はニューブリテン島ラバウルを出撃したが[注釈 4]、ラエ・サラマウア(東部ニューギニア、フォン湾)へ航行中の3月2日から3月3日にかけてビスマルク海からダンピール海峡において連合軍航空部隊の大規模攻撃を受け、特に3月3日の反跳爆撃により大損害を受ける[26]。さらに3月4日にかけて連合国軍魚雷艇部隊が実施した追撃と掃討作戦により、被害が拡大した[27]。 一連の戦闘により、日本軍の輸送船団は壊滅[28](輸送船8隻沈没、駆逐艦4隻沈没)[29][注釈 1]、乗船将兵約3,000名が戦死[8]、搭載していた重機材すべてを喪失[30]。ダンピール海峡の悲劇と呼称された[31]。 本作戦を立案した第八方面軍は後日開かれた研究会において「現況において如何なる方策を講ずるもあのような結果を得るの外なかった」と総括している[32]。 1942年(昭和17年)12月31日の大本営御前会議において、日本軍はガダルカナル島からの撤退を正式に決定する[33][34]。ガ島撤収後は北部?中部ソロモン群島の防備を固めるとともに[35]、東部ニューギニアでの作戦も重視することになった[36][37](翌年1月4日、大陸命第732号、大海令第23号など)[38]。昭和天皇は「ただガ島を止めだだけではいかぬ。何処かで攻勢に出なければならない。」と指導したので、大本営はニューギニア作戦に重点を置くことになった[39][40]。大本営陸軍部は、陸地続きのニューギニア戦線ならば負けるはずがなく、ポートモレスビー包囲も努力次第では可能とみていた[41]。またラバウルに根拠地をおく第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)[42]の任務は「第八方面軍司令官ハ大陸命第七百十五号ニ拘ラス海軍ト協同シ「ソロモン」群島及「ビスマルク」群島ノ各要域ヲ確保スルト共ニ「ニューギニヤ」ノ要域ヲ攻略確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スヘシ」(昭和18年1月4日、大陸命第732号)と定められた[43]。大本営の強気とは裏腹に、第八方面軍はニューギニア戦線についても悲観的な見方をしていた[44]。
概要
背景
ニューギニア重視の姿勢