ビスマルク憲法
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ビスマルク憲法(ビスマルクけんぽう、:Bismarcksche Reichsverfassung)は、1871年に制定されたドイツ帝国憲法である。正式にはドイツ国憲法(ドイツこくけんぽう、独:Verfassung des Deutschen Reiches)。帝政時代の憲法であったことから、ドイツ帝国憲法とも訳される。

プロイセン国王をドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)と称し、国家元首を兼任の上でドイツ諸邦国の盟主と定め、統一ドイツ国家の基本法として、1919年ドイツ革命によってヴァイマル憲法に代わるまでその効力を保った。

欽定憲法であり、日本の大日本帝国憲法にも影響を与えた。
経緯
プロイセンとフランスとの関係フランス皇帝ナポレオン3世

普墺戦争後、プロイセンのイニシアチブのもとで1867年北ドイツ連邦が成立すると、時の連邦宰相(ドイツ語版)オットー・フォン・ビスマルクが中心となって、同年4月16日に北ドイツ連邦憲法が制定された(施行は同年7月1日)[1]

当時、フランス第二帝政においてフランス皇帝の地位にあったナポレオン3世は、普墺戦争の際にプロイセンからライン川左岸を獲得するという目的を達することができなかったため、普墺戦争後、イタリア王国及びオーストリア帝国と結んで、プロイセンの勃興を阻止しようとしていた[2]。これは、フランスにとって強大なドイツ連邦の存在が不利であったというだけでなく、ナポレオン3世が自己の帝位を維持するために常にフランス国民がヨーロッパ政治において最上の地位を占めるようにしておかなければならなかったからでもある[3]

また、プロイセンにとっても、フランスと戦ってこれに勝つことは、すなわち、プロイセンがオーストリアなしにドイツ諸邦の保護者として十分な実力を有していることをドイツ南部の諸邦に対して示すことになるのであって、この試練を首尾よく通過しなければ、南部諸邦を北ドイツ連邦に加入させてプロイセンの統制のもとに置くことは不可能であった[4]。それゆえ、普仏両国の衝突は、普墺戦争後に当然来たるべき運命であって、ビスマルクは、十分な覚悟を有していた[4]。そして、普仏戦争の原因として考えられるルクセンブルク公国問題及びスペイン王位継承問題は、単なる近因にすぎないのであって、普仏両国の衝突は、想定されたものであった[4]
ルクセンブルク問題詳細は「ルクセンブルク危機(ドイツ語版、フランス語版)」を参照オランダ国王ウィレム3世によるルクセンブルク売却の試み

ルクセンブルクは、当時、オランダに属しており、北ドイツ連邦には加入していなかった[4]。しかしながら、ルクセンブルク市要塞地帯であって、プロイセンの軍隊が占領していた[4]1867年、ナポレオン3世は、オランダと密かに売買契約を締結し、ルクセンブルクを合併しようとしたが、ビスマルクはこれに反対し、ルクセンブルクを永世中立国として列国の保障のもとにおいて、プロイセンの軍隊を撤退させた[5]。すなわち、ビスマルクは、これによって、一方ではドイツ国民のフランスに対する反感を鼓吹し、他方においてはプロイセンこそが北ドイツ連邦の辺境を守護する者であってフランスに対抗すべき十分な実力があることを南部諸邦に示したのであった[5]
スペイン王位継承問題詳細は「スペイン王位継承問題(ドイツ語版)」を参照プロイセン国王ヴィルヘルム1世から言質を得ようとするフランス大使ベネデッティ

1868年、スペイン女王イサベル2世がスペイン名誉革命(スペイン語版)によって退位すると、後継者は、若干の曲折を経て、プロイセン王室(ホーエンツォレルン家)に属するレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンに決定されたが、このことがフランス国民の感情を害したため、ナポレオン3世は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に対してレオポルトの王位継承権を放棄するよう強要した[5]。当時、ヴィルヘルム1世は、バート・エムスにおいて静養中であったところ、フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(フランス語版)は、エムスに急行し、もしもヴィルヘルム1世がレオポルトの王位継承権を放棄しない場合は普仏両軍は直ちにライン川上において相見えることになるだろうと伝達した[6]。レオポルトは、時局に鑑みて王位継承権を放棄したが、フランス大使は、なおもエムスにおいてヴィルヘルム1世に強要し、将来の保障を要求した[7]。ビスマルクは、これを巧みに利用して、有名な1870年7月13日のエムス電報事件をもってフランスとの交渉を打ち切り、決戦の機会を捕らえたのであった[7]
普仏戦争詳細は「普仏戦争」を参照

かくして、1870年7月19日にフランスがプロイセンに対して宣戦布告したことによって、普仏戦争が開始した[7]。普仏戦争は、プロイセンの大勝に帰し、1871年1月28日のパリ陥落をもって終結した[7]。同年2月26日にはヴェルサイユ条約(ドイツ語版、フランス語版)(仮条約)が締結され、同年5月10日にはフランクフルト講和条約が締結された[7]。普仏戦争においてドイツ国民が得たのは、エルザス及びロートリンゲンの2州と50億フランの償金のほか、「ドイツ帝国」であった[7]
ドイツ帝国の建設北ドイツ連邦

ドイツ帝国の建設は、北ドイツ連邦と南部諸邦(バーデン大公国ヘッセン大公国ヴュルテンベルク王国及びバイエルン王国)との間の国際条約の締結によって始まった[8]
十一月条約詳細は「十一月条約(ドイツ語版)」を参照

バーデン及びヘッセンとの間には、1870年11月15日にヴェルサイユにおいて条約が成立した[8]。この条約は、将来のドイツ連邦の憲法を添付したものであったが、これは、北ドイツ連邦憲法を両国に対して適用する上で若干の修正を施したものであった[8]。そして、この将来の憲法は、1871年1月1日をもって実施されるべく、かつ、この条約自体は、北ドイツ連邦、バーデン及びヘッセンの立法機関の承諾を経て12月中に批准されるべきことが規定されていた[8]

ヴュルテンベルクとの条約は、一方の当事者をヴュルテンベルクとし、他方の当事者を北ドイツ連邦、バーデン及びヘッセンとして、11月25日にベルリンにおいて締結された[9]

この条約において、ヴュルテンベルクは、若干の修正を留保して、連邦憲法の適用を受けることを承認した[10]


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