ビスカヤ県
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ビスカヤ県
ビスカヤ県の位置
 バスク州
県都 ビルバオ
公用語バスク語スペイン語
議会
 ? 上院
 ? 下院
 ? 州議会
8議席
4議席
25議席
面積
 ? 総計
 ? スペイン国内の%
 ? 順位
2,217
0.44%
49位
人口(2014年)
 ? 総計
 ?スペイン国内の %
 ? 人口密度
 ? 順位
1,151,905人
2.47%
519.58人/km2
9位
自治体数112
住民の呼称vizcaino, na
郵便番号48
ISO 3166-2ES-BI
県議会公式ページ
スペインの県

ビスカヤ県(ビスカヤけん、バスク語:Bizkaia : Bizkaiko Probintzia, カスティーリャ語:Vizcaya : Provincia de Vizcaya)は、スペインバスク州の北西部に位置する大西洋ビスケー湾に面している。県都はビルバオ。名称はバスク地方のビスカヤ領主の後継者を意味する。19世紀末と20世紀前半には周辺で採掘される鉄鉱石のおかげで工業化が進展し、スペインでもっとも裕福でもっとも重要な県のひとつとなった。1970年代には深刻な産業空洞化を経験し、サービス部門が重要性を増大させた。
語源・表記

コルド・ミチェレナなどの言語学者は、Bizkaiaがbizkar(「低い尾根」や「目立つ物」の意味[1])と同系統であるとしている[2]

バスク語ではBizkaia(ビスカイア)と表記される。エウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)はこの表記を推奨しており、一般にバスク語の公的書類に使用されている。カスティーリャ語の書類に使用されることもあり、スペイン・バスクのメディアにもっとも多く使用されている表記である。スペイン1978年憲法のバスク語版やバスク自治憲章(英語版)(ゲルニカ憲章)のバスク語版にも使用されている表記である。また、ビスカヤ県議会によれば、歴史的な領域としてのビスカヤを表す際に使用できる唯一の公式表記である。カスティーリャ語ではVizcaya(ビスカヤ)と表記される。レアル・アカデミア・エスパニョーラ(スペイン語アカデミー)はこの表記を推奨しており、公式でない多くの書類に使用されるほか、多くのカスティーリャ語話者に使用されている。スペイン憲法のカスティーリャ語版やバスク自治憲章のカスティーリャ語版にも使用されている表記である。
地理バスク山脈オイス山に立ち並ぶ風力発電機

西はカンタブリア州カスティーリャ・レオン州ブルゴス県と、南はバスク州アラバ県と、東はバスク州ギプスコア県と接している。北はビスケー湾(大西洋)のカンタブリア海に面している。アラバ県やブルゴス県の中にはビスカヤ県の飛び地としてウルドゥニャがある。面積は2,217km2であり、海岸線長は80kmである。ビスカヤ県は西岸海洋性気候(Cfb)であり、エスパーニャ・ベルデ(緑のスペイン)と呼ばれる地域にある。年間を通じて降水量が多く温暖であり、草木が良く茂る。内陸部の標高が高い地域では冬季に雪が多く降る。

北部(海岸部)
ビスカヤ県の海岸部ではネルビオン川や、中下流部にゲルニカがあるゲルニカ川が大西洋のビスケー湾に注いでいる。海岸は断崖となっていることが多く、小規模な入り江が多い。ネルビオン川のビルバオ河口やゲルニカ川のウルダイバイ河口(英語版)は比較的規模の大きい平地をもたらしており、ビルバオ河口にはビルバオバラカルドなどのビルバオ都市圏が形成されている。

中部
ビスカヤ県中部にはネルビオン川、イバイサバル川、カダグア川による盆地が形成されている。カダグア川はオルドゥンテ山から東へ流れ、ネルビオン川はオルドゥニャ山から北に流れ、イバイサバル川はウルキオラ山から西に流れる。アラティア川はゴルベア山地から北に流れ、イバイサバル川に合流する。それぞれの盆地がガネコゴルタ山(998m)などで隔てられている。風力発電機が立ち並ぶオイス山(1026m)は海岸部の平地と主要な盆地とを隔てている。その他の川としてはアルティバイ川レア川、オカ川、ブトロン川などがある。

南部(内陸部)
ビスカヤ県南部の山地はバスク山脈を構成しており、標高600m以上で峠のある峰が続き、大西洋地中海側の平地との分水嶺をなす。この山地はオルドゥンテ山(サラマ山、1390m)、オルドゥニャ山(1100m)、ゴルベア山地(1481m)、ウルキオラ山(アンボト山、1331m)で東西に分かれる。
歴史
古代ゲルニカ=ルモ近くのサンティマミニェ洞窟

ビスカヤにおいて、旧石器時代中期の人間(ネアンデルタール人)の居住の証拠が確認されている。ビスカヤの3地域、ベンタ・ラペラ(カランツァ)、クルツィア(ゲチョ)、ムルア(ドゥランゴアルデア)でムスティエ文化の遺物が発見されている。ゲルニカ近くのサンティマミニェ洞窟では、旧石器時代後期のシャテルペロン文化(やはりネアンデルタール人)の遺物が発見されている。ホモ・サピエンスの重要な居住地には、オーリニャック文化のベンタ・ラペラ、クルツィア、ルメンツァ、グラヴェット文化のサンティマミニェ、ボリンコバ、アチュラ、ソリュートレ文化のサンティマミニェ、ボリンコバ、マドレーヌ文化のサンティマミニェ、ルメンツァなどがある。

ビスカヤには旧石器時代の絵画もまた存在している。ベンタ・ラペラ洞窟にはオーリニャック文化かソリュートレ文化の時代の古い洞窟壁画が見られ、抽象的な記号とともにバイソンクマなどの動物が描かれた[3]。アレナサとサンティマミニェの壁画は、やや後のマドレーヌ文化の時代に製作された。アレナサの雌鹿が支配的なモチーフであり、サンティマミニェ洞窟にはバイソン、ウマ、ヤギ、シカなど大型の野生動物が描かれた[3]

中石器時代のビスカヤではアジール文化(英語版)が営まれた。石器はより小型化して洗練され、依然として狩猟が行われていたが、漁労がより重要となり、野生の果物もまた消費された。サンティマミニェは中石器時代ももっとも重要な遺跡のひとつであり、他の遺跡にはアレナサ、アチェタ、ルメンツァ、ウルティアガ、サンタ・カタリナなどがある。バスク地方における新石器時代は紀元前4,000年に遡ることができ、新石器時代の技術とともにドルメンなどの巨石記念物も登場した[3]。紀元前1,500年までは巨石を置くことが埋葬のもっとも一般的な形式だった[3]

青銅器時代には自然光の当たる場所への定住が人口増加を促したが、まだ洞窟や自然のシェルターも使用していた。タンパク源を確保する手段としての狩猟の重要性は低下し、人類はヒツジ、ヤギ、ウシなどの家畜に頼るようになった。金属器が一般的となったが、まだ石器も使用していた。青銅器時代の遺跡はビスカヤ全体に分布し、その多くは自然光が当たる場所にあったが、旧石器時代の主要な洞窟はまだ使用されていた。鉄器時代の遺跡もビスカヤで確認されている。洞窟の大部分は放棄されているが、先史時代の主要な洞窟(アレナサ、サンティマミニェ、ルメンツァ)などには鉄器時代にもまだ人類が居住していた。

古代ローマ時代に現在のビスカヤに存在していたふたつの部族(カルリスティとアウトリゴネス)が地理学者によって特定されている。


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