ビザンティン建築
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ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、英語: Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。5、6世紀ころから、コンスタンティノープル(旧称はビュザンティオン)を中心に興った。特色は正方形またはギリシャ十字形の平面、ドーム、金地の華麗なモザイク、大理石の張石などである。日本語ではビザンツ建築と呼ばれる場合もある。

4世紀ごろには帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの、今日においても正教会聖堂、あるいはイスラム教モスクとして利用されている。

ローマ建築円熟期の優れた工学技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。

キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアジョージアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。イスタンブールハギア・ソフィア大聖堂 周囲の4本のミナレットオスマン帝国時代にモスクに転用された際に付け加えられたもの。「東欧諸国のビザンティン建築」および「ロシア建築」も参照
概要アギオス・ディミトリオス聖堂(テッサロニキ)初期キリスト教建築におけるバシリカ式教会堂。ハギア・ソフィア大聖堂
ローマの建築技術を結集した初期ビザンティン建築の傑作。バシリカとドームの融合した教会堂。オシオス・ルカス修道院中央聖堂
中期ビザンティン建築のスクィンチ式複合型教会堂。

ビザンティン建築を単に時代区分としてとらえた場合、コンスタンティヌス大帝330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転したときから、1453年オスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」「ビザンツ(ビザンティン)帝国」といった呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。

4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにないまったく新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であるといえる[1]

しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換に伴ってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張りめぐらされた建築材料流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあるといえる[2]のに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため[注釈 1]、この暗黒時代をビザンティン建築のひとつの分岐点とする指摘もある[3]

中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったため、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動修道院の独立を促し、修道院の建設移転譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐され、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。

9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが[注釈 2]十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷とのつながりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築にはロマネスク建築ゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。

東ローマ帝国では、住宅宮殿貯水槽要塞橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか造らなかったわけではない。
歴史
初期ビザンティン建築

4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。
初期キリスト教建築サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂


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