ビザンツ帝国支配下のギリシャ
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)

ギリシャの歴史

エーゲ文明
ヘラディック文明
キクラデス文明
ミノア文明
ミケーネ文明
古代ギリシア
暗黒時代
幾何学文様期
アルカイック期 (古典期)
ヘレニズム
ローマ帝国支配下のギリシャ
ビザンツ帝国支配下のギリシャ
ビザンツ帝国
分裂時代
トルコクラティア
(オスマン帝国支配下のギリシャ)
近代ギリシャ
ギリシャ独立戦争
(ギリシャ第一共和政)
ギリシャ王国
国家分裂 (ギリシャ王国)
ギリシャ第二共和政
八月四日体制
ギリシャ国
ギリシャ内戦
ギリシャ軍事政権
ギリシャ第三共和政
その他
ギリシア美術










東ローマ帝国支配下のギリシャでは、東ローマ帝国支配下のギリシャのことを記す。


目次

1 公用語がギリシャ語に変わる

2 スラヴ人、アヴァール人の侵入

3 東ローマ帝国によるギリシャ再征服

4 ブルガリア帝国の侵入

5 ノルマン人の侵入

6 十字軍国家の樹立

7 参考文献

8 関連項目


公用語がギリシャ語に変わる

395年、ローマ皇帝テオドシウス1世が死去し、テオドシウスの2人の息子アルカディウスホノリウスローマ帝国を分割し、それぞれ東西の皇帝になった。現代のギリシャ共和国にあたる部分は、東ローマ帝国に属することになった。東ローマ帝国は7世紀になると公用語ラテン語からギリシャ語に変わるが、彼らは自分たちのことをローマ人と自称し続け、ギリシャ人とはみなさなかった。
スラヴ人、アヴァール人の侵入

540年ごろからギリシャ地域にスラヴ人の進入が始まった。558年にはコンスタンティノープルに攻撃を加えた後、南下しテルモピュレーまで進撃したスラヴ人部隊も出現した。その後ティベリウス2世治下の580年、モンゴル系のアヴァール人とスラヴ人の大侵入がはじまりギリシャの諸都市を次々破壊していった。アヴァール人はドナウ川以北へ追い払うことができたが、スラヴ人はそのままギリシャの村に定住していった。その後サーサーン朝ペルシア帝国と同盟を結んだアヴァール人は再びドナウ川を越えてバルカン半島に侵入を開始した。スラヴ人も攻撃に加わり、ヘラクレイオスの治下になると湾岸部を除くギリシャの大部分がスラヴ人の支配下になった。テッサロニキやペロポネソス南端のモネンヴァシアはギリシャ人の手に残ったが、ギリシャ都市の多くは荒廃、スラヴ化したため、スクラヴィニアと呼ばれた。
東ローマ帝国によるギリシャ再征服


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef