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東ローマ帝国支配下のギリシャでは、東ローマ帝国支配下のギリシャのことを記す。
目次
1 公用語がギリシャ語に変わる
2 スラヴ人、アヴァール人の侵入
3 東ローマ帝国によるギリシャ再征服
4 ブルガリア帝国の侵入
5 ノルマン人の侵入
6 十字軍国家の樹立
7 参考文献
8 関連項目
395年、ローマ皇帝テオドシウス1世が死去し、テオドシウスの2人の息子アルカディウスとホノリウスはローマ帝国を分割し、それぞれ東西の皇帝になった。現代のギリシャ共和国にあたる部分は、東ローマ帝国に属することになった。東ローマ帝国は7世紀になると公用語がラテン語からギリシャ語に変わるが、彼らは自分たちのことをローマ人と自称し続け、ギリシャ人とはみなさなかった。 540年ごろからギリシャ地域にスラヴ人の進入が始まった。558年にはコンスタンティノープルに攻撃を加えた後、南下しテルモピュレーまで進撃したスラヴ人部隊も出現した。その後ティベリウス2世治下の580年、モンゴル系のアヴァール人とスラヴ人の大侵入がはじまりギリシャの諸都市を次々破壊していった。アヴァール人はドナウ川以北へ追い払うことができたが、スラヴ人はそのままギリシャの村に定住していった。その後サーサーン朝ペルシア帝国と同盟を結んだアヴァール人は再びドナウ川を越えてバルカン半島に侵入を開始した。スラヴ人も攻撃に加わり、ヘラクレイオスの治下になると湾岸部を除くギリシャの大部分がスラヴ人の支配下になった。テッサロニキやペロポネソス南端のモネンヴァシアはギリシャ人の手に残ったが、ギリシャ都市の多くは荒廃、スラヴ化したため、スクラヴィニアと呼ばれた。
公用語がギリシャ語に変わる
スラヴ人、アヴァール人の侵入
東ローマ帝国によるギリシャ再征服
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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