ビエラ彗星
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ビエラ彗星
3D/Biela

二つに分かれた直後のビエラ彗星(1846年2月)。
仮符号・別名3D/1772 E1 = 1772 =
3D/1805 V1 = 1806 I =
3D/1826 D1 = 1826 I =
3D/1832 S1 = 1832 III =
1846 II = 1852 III[1]
分類消滅した彗星
発見
発見日1826年3月8日[2]
発見者Jacques Leibax Montaigne[2]
軌道要素と性質
元期:1832年12月3.0日 (TDB 2390520.5)[1]
軌道長半径 (a)3.5347 au[1]
近日点距離 (q)0.8791 au[1]
遠日点距離 (Q)6.1902 au[1]
離心率 (e)0.7513[1]
公転周期 (P)6.65 [1]
軌道傾斜角 (i)013.216 °[1]
近日点引数 (ω)221.659 °[1]
昇交点黄経 (Ω)250.669 °[1]
平均近点角 (M)000.947 °[1]
前回近日点通過1852年9月24日
最小交差距離0.000528 au(地球)[1]
ティスラン・パラメータ (T jup)2.531[1]
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ビエラ彗星(英語: Biela's Comet、Comet Biela、3D/Biela)はかつて周期彗星であったが1852年に分裂して消滅した天体。1772年にJacques Leibax Montaigneによって発見され、1826年にヴィルヘルム・フォン・ビーラにより初めて周期彗星として認知されるようになった。ビエラ彗星の残骸はアンドロメダ座流星群(英語版)として現在も出現する。
観測史
発見

ビエラ彗星は1772年3月8日、Jacques Leibax Montaigneによって初めて発見された[2]。1805年11月10日にはジャン=ルイ・ポンが観測したが同じ彗星であるとは認識できていなかった。1805年の出現後にはカール・フリードリヒ・ガウスフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルら天文学者によりその軌道を確定しようと計算が行われた。ガウスとヴィルヘルム・オルバースは1772年の彗星と1805年の彗星が類似していることに気付いたが、その関係性を証明することができなかった[2]
周期彗星の確認

1826年、ビエラ彗星が近日点に接近しているとき、チェコのJosefstadt(英語版)要塞に勤務していた陸軍将校のヴィルヘルム・フォン・ビーラはその軌道を計算し、周期6.75年の彗星であることを発見した[3]。当時、周期彗星であると分かっていたのはハレー彗星エンケ彗星のみで、これは3番目の発見であった。なお、1805年と1826年のビエラ彗星を初めて数学的に同定したJean-Felix Adolphe Gambart(英語版)の名前を命名するべきだという声もあった。さらに彼はAstronomische Nachrichtenにビーラよりも1日早く投稿した。それでもビーラの観測日は2月27日、Gambart観測日は3月9日であったため、ビーラの名が付けられることになった[4]

ビエラ彗星は1832年に回帰が予測され、9月24日にはジョン・ハーシェルが再発見した[2]軌道要素天体暦はオルバースにより計算され、10月29日の接近の際には彗星のコマが地球を通過する可能性があることを示したため、世間を騒がせたこともあった。その後、当時のメディアは地球滅亡の可能性を予測したが、11月30日になるまで地球とコマが接触する地点にならないことをフランソワ・アラゴが指摘し、一般人の恐怖を和らげた[5]

1839年に回帰するときはビエラ彗星が地球から遠い位置にあり、観測に適さない状況であったため、観測の記録はなかった[2][6]
崩壊

1839年には悪条件のため観測されなかったが、1845年11月26日にはフランチェスコ・デ・ヴィコによって再び発見された[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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