ビアンカ・マリア・スフォルツァ
[Wikipedia|▼Menu]

ビアンカ・マリア・スフォルツァ
Bianca Maria Sforza
サヴォイア公妃
神聖ローマ皇后
ビアンカ・マリア・スフォルツァ(ジョバンニ・アンブロージオ・デ・プレディス画、ナショナル・ギャラリー所蔵)
在位サヴォイア公妃:1474年1月 - 1482年9月22日
ローマ(ドイツ)王妃:1494年3月16日 - 1510年12月31日
神聖ローマ皇后:1508年2月4日 - 1510年12月31日
別称号オーストリア大公妃

出生1472年4月5日
パヴィーア
死去 (1510-12-31) 1510年12月31日(38歳没)
インスブルック
配偶者サヴォイア公フィリベルト1世
 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世
家名スフォルツァ家
父親ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
母親ボナ・ディ・サヴォイア
テンプレートを表示

ビアンカ・マリア・スフォルツァ(Bianca Maria Sforza, 1472年4月5日 - 1510年12月31日)は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇后、2度目の妻。スフォルツァ家の出身。
目次

1 生涯

2 脚注

2.1 注釈

2.2 出典


3 参考文献

4 関連項目

生涯

ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと妃ボナ・ディ・サヴォイアの長女としてミラノ公国の都市パヴィーアで生まれた。

1474年1月、サヴォイア公フィリベルト1世と2歳で結婚したが、1482年に死別しミラノに帰国した。

1493年8月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が崩御し、その後継者たるローマ王マクシミリアンは、莫大な持参金をもたらすビアンカとの再婚を決意した。結婚により、多額の現金を得て傭兵を雇い、イタリア方面への進出が可能となることで、ローマで法王の手により戴冠すること[注釈 1]が目的であった[1]

一方のスフォルツァ家側も、王族と血縁になることで、自らの地位を高めようとした[2]

同年11月20日、ビアンカの兄:ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと、兄の後見人で「イル・モーロ」の通称で知られる叔父ルドヴィーコ・スフォルツァが、マクシミリアン側と結婚を契約[3]。同月末にはマクシミリアンの従兄クリストフ・フォン・バーデンとミラノで代理結婚を行った。ミラノでの結婚とそれに続く宴は、絢爛豪華なものであった[4] シュトリーゲル画(1505?1510年頃)

しかし、同年12月、クリストフ・フォン・バーデンとアイテルフリッツ・フォン・ツォレルン(ドイツ語版)を従え、厳冬期のアルプス山脈を北上してチロル地方へ向かう旅は、惨めなものであった[4]。二人はウィーンのマクシミリアンに、「ビアンカの容姿や性格が良く、マクシミリアンの気に召す」旨を報告した[4]。二週間強の旅を終えたビアンカは、老齢のオーストリア大公ジークムント(ジギスムント)に出迎えられるが、花婿マクシミリアンは現れず、落胆する[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef