公用語ウズベク語
首都クフナ・ウルゲンチ
ヒヴァ
ハン
1512年 - 1518年イルバルス1世
1644年 - 1663年アブル=ガーズィー
1804年 - 1806年イルテュゼル
1806年 - 1825年ムハンマド・ラヒーム
1918年 - 1920年サイード・アブドゥッラー
変遷
建国1512年
コンギラト朝の確立1804年
ロシアによる征服1873年8月12日
滅亡1920年2月2日
?ヒヴァ・ハン国の国旗(1917年)
ヒヴァ・ハン国(ヒヴァ・ハンこく、ウズベク語: ????? ?????、ラテン文字転写: Xiva Xonligi、キリル文字転写: Хива хонлиги)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる[1][2]。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある[3]。 ヒヴァ・ハン国の建国者イルバルスは、ウズベク国家のブハラ・ハン国(シャイバーニー朝)の創始者アブル=ハイルと別の家系に属する。イルバルスの一族はアブル=ハイル家と敵対関係にあり、1500年にシャイバーニー朝のハンに即位したムハンマド・シャイバーニー・ハンの遠征事業にもイルバルスの一族は参加しなかった[4]。 1510年にシャイバーニー・ハンがサファヴィー朝との戦闘で敗死したとき、シャイバーニー朝が領有していたホラズム地方はサファヴィー朝の支配下に入った。この時にホラズムの住民はイルバルスと彼の兄弟であるバイバルスを呼び、サファヴィー朝からの解放を願い出た[4]。1512年にイルバルスは、サファヴィー朝に一時奪われていたホラズム地方を奪回し、麾下のウズベク諸部族を中核として、トルクメン系遊牧民、オアシス都市のイラン系、テュルク系の定住民を支配下に置き、王朝を樹立した[2]。しかし、ホラズム地方で定住生活を営んでいたイラン系の住民はサファヴィー朝の支配を支持し、しばらくの間イルバルスに抵抗していた[5]。1559年にヒヴァとブハラの使節がモスクワを訪れ、ウズベク国家とロシアの交流が始まった[6]。ロシアからは中央アジアのロシア人奴隷を買い戻す使者が送られ、ヒヴァのハンはロシアに武器・鉛・鷹を求めた[6]。 17世紀前半にはカザフやオイラト(カルムィク)といった遊牧民の侵入と王室の内訌に苦しみ[7]、イランの王朝やブハラ・ハン国との抗争で内情は不安定な状態に置かれていた[2]。1593年(1594年)にホラズム地方はブハラ・ハン国によって一時的に占領される[8]。 また、1570年代にアムダリヤの水路の変化によって首都のクフナ・ウルゲンチは衰退し[9]、アラブ・ムハンマド(在位1603年 - 1621年)の治世の初期にウルゲンチはコサックから略奪を受けた[10]。
歴史
チンギス裔の王朝