ヒンメロート覚書
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年1月)

ヒンメロート覚書(ヒンメロートおぼえがき、ドイツ語: Himmeroder Denkschrift)は、ドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州ベルンカステル=ヴィットリヒ郡にあるヒンメロート修道院(ドイツ語版)で1950年10月初めから始まった5日間に渡る西ドイツ再軍備についての専門家会議の結果、作成された覚書ドイツ連邦軍の建軍にあたっての基本構想となった。ヒンメロート修道院
背景
朝鮮戦争

1950年6月25日、北朝鮮の奇襲により朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮軍は明白にソビエト連邦中華人民共和国の支援下で軍事行動を継続した。この戦争によって米ソの代理戦争は超大国間での直接対決の現実味を帯びるようになる。ヨーロッパにおける脅威は東ドイツ国家人民軍及びドイツ駐留ソ連軍による西ドイツへの侵攻が来るべき戦争として受け止められた。また、直接ソビエト連邦による侵攻の脅威も顕在化する。膨大な人口を擁する西ドイツ自体が攻撃目標となり得、この脅威の前にパニック状態に陥る恐れがあった。
戦後の東西ドイツに配備された戦力
東ドイツ

1946年2月1日、在独ソ連軍政府当局は準軍事組織のドイツ国境警察(後の国境警備隊)を設立し、その後ドイツ内務管理局(後の国家保安省)の管理下に置かれる。1948年10月には、人民警察にて旧ドイツ国防軍捕虜から成る機動警察が、初期戦力約10,000人を以って各250人による40個隊体制での編成を始める。

1949年10月7日のドイツ民主共和国の成立は東西分裂を確定させた。同月、東ドイツ内務省(MdI)の下で兵営人民警察(VPB)の基となる演習本部(HVA)が設立され、伴って演習本部隷下の武装警察部隊が編成される。これに対応するため、メクレンブルク州国境警察は1950年1月からバルト海沿岸部の管理に責任を負う。1950年6月に海上警察本部(HVS)が設立され、沿岸警備挺や掃海艇を装備した。翌7月、人民警察の支援で防衛体育を目的とする団体として自由ドイツ青年団(FDJ)が設立される。1950年夏、西側は東ドイツ軍事組織についての推定を立てた。内容としては53,000人(アメリカ合衆国)や、75,000人(西ドイツ)の数字があがり、1952年までには更に300,000人規模にまで膨れ上がると見られた。

1950年夏までに東ドイツの軍事力建設は広範な基盤上から始められた。これには東ドイツ指導者による積極的宣伝が伴っており、朝鮮戦争を引き合いに出し事態解決のために議論が展開された。1950年8月3日、フリードリヒシュタット宮殿(de:Friedrichstadt-Palast)で開催されたドイツ社会主義統一党(SED)の党大会にて書記長ヴァルター・ウルブリヒトはその演説で「朝鮮での事例が示すとおり、早晩に傀儡政権は一掃されるだろう、やがて朝鮮と同様に戦争の挑発を精算する時が来る」と述べた[1]。しかし、アデナウアー政権と西側軍は少なくとも1952年までは東ドイツ単独の軍事力による侵攻の恐れは低いと想定した。
西ドイツ

1950年、いまだ西ドイツは独自の戦力は保有しておらず、ただ連邦州のみが自由に運用できる機動隊があるのみであった。同年春、駐独連合軍統合参謀部によって「国家安全保障」を名目とした5,000人規模の連邦警察が創設される。これを母体にして1951年にドイツ連邦国境警備隊が創設される。1950年、連合業務グループ(de:Alliierte Dienstgruppen)には約145,000人のドイツ人が雇用されていた。これらの中には保安任務についた小規模なドイツ人部隊が含まれ、沿岸域の機雷掃海業務を担当していたドイツ掃海管理局には1,600人のドイツ人がいた。
東部地域と西部地域の連合国軍

これらの背景には第二次世界大戦戦勝国の影響力が絶大であった。

西側の様々な推定によれば1950年の赤軍は国境周辺に175個師団、30個の防空および砲兵師団、25,000から60,000輌の戦車が存在しているとされた。駐独ソ連軍は1個グループに6,000輌の戦車、22個師団で構成されると計算され、6から9個の防空または砲兵師団が付属するとみられた。東ドイツ国内には328,000人が駐留していると目され、この内270,000人の地上戦力が侵攻作戦に投入されると見られた。一方、西側の連合軍は1945年のヨーロッパでの戦争終結後に急速に戦力は削減されていた。当時、西側諸国で最も強力な現役の戦闘部隊はインドシナ戦争に投入されていた。1950年、ドイツ駐留の米英仏軍は約17万人でその多くは占領行政を遂行することに特化しており、戦闘任務には不適であった。さらに、駐留軍の大半の装備は旧式化しつつあった。西ドイツ政府の評価によれば戦闘任務に耐えうる駐留連合軍部隊は米英2個師団、仏1個師団弱とみられていた。連合国軍本国にはドイツでの戦役に対応できる緊急展開用の部隊はほとんど準備されていなかった。

航空戦力に対する評価については緊急展開性が求められたためさらに厳しく、ソ連空軍と海軍は5,000機のジェット機を含む約20,000機を配備しているとされ、西側は極めて劣勢であると見られていた。

海洋戦力については東側に比べて優越していると評価されたものの、ソ連海軍が保有する約250隻の潜水艦については西ヨーロッパ周辺海域での通商破壊任務に投入されると見られ、一定の脅威があると評価された。

核兵器については1945年にアメリカ合衆国が開発して以来、独占所有しており従来優勢と見られていたソ連軍に対して十分な保護を与える担保となっていた。しかし、1949年のソ連初の核実験によりこの優勢は崩された。これにより近い将来ソ連はアメリカ合衆国の戦力を凌駕すると予見された。ソ連の在来戦力は西ヨーロッパの脅威に変わった。西側の評価によればソ連は大西洋へ到達可能な攻撃が可能と見られた。特に、西ドイツは危険に晒され連合軍はライン川まで撤退し、西ドイツ国土の大半は一時的に失陥すると見られた。朝鮮戦争勃発後その驚異は現実味を帯び、東ドイツ人民警察が朝鮮戦線における奇襲攻撃により始まったのと同様な代理戦争を実行可能かどうかが脅威の争点となった。アデナウアー首相は両方の質問に対して異なる評価をした。西側では想定されうる西ドイツに対する攻撃方法としては東ドイツ人民警察による初動が見込まれ、それに続きソ連軍による侵攻があるとされた。このような作戦に投入できるように1952年までに人民警察は人民軍に改編される。また。1952年までには通常戦力を補強する核兵器問題が予想された。このため対応する時間的猶予は2年間しか残されていなかった。
西欧防衛手段の強化

これらの背景の前にソ連軍の脅威から西ヨーロッパ防衛のために西ドイツ独自による防衛力の整備が求められる。

西ヨーロッパ諸国で最大の人口を誇る西ドイツの再軍備については純粋軍事的な問題だけでなく政治的かつ心理的な問題もはらんでいた。アデナウアー首相は独立直後の西ドイツ主権の維持は相当な程度が西ヨーロッパ防衛に掛かっているとして自国軍が果たす役割を認めた。このような認識に基づき新生国軍は幾つかの参加方式が検討され、60,000人規模の重武装警察である連邦警察(Bundesgendarmerie)の創設が求められ、連合国は当初約30,000人規模の国境警備隊の創設を承認し、連合国軍に加入できる可能性が考慮される。アデナウアー首相は防衛貢献についてドイツの必須条件について関連する質問を主張する。1950年9月19日に北大西洋理事会はこの質問の採用を決定した。同日、米英仏の外相はドイツの再軍備とその受入れが認められる。連合国占領法の緩和に加え西ドイツへの攻撃に対応するための戦力が提供される事になる。これは西ドイツの安全保障を表明することにあった。
ヒンメロート専門家委員会

ドイツ連邦共和国の再軍備については長期間留めおかれた上で政治的決定がなされた。朝鮮戦争の影響下で西側連合国とアデナウアー政権の間では幾つかの調査機関が設けられていた。1950年9月のアメリカ合衆国との対話でアデナウアー首相はドイツ防衛のための貢献について実際的な問題について協議を準備するとした。ドイツ側は専門家の参加が求められ候補者の捜索が始められ、戦後の処分によって公的業務に参加できなかった人物たちは政治的に参加が認められた[2]

1950年5月にアデナウアーの下にはゲルハルト・グラーフ・フォン・シュヴェリーン元装甲兵大将(de:Gerhard Graf von Schwerin)を長とする極秘の軍事顧問部が置かれた。これは祖国奉仕本部(Zentrale fur Heimatdienst:ZfH、後のブランク機関:de:Amt Blank)として創設され、旧参謀本部に所属したことのある三軍将校でアドルフ・ヒトラーに広義的な意味で抵抗した人物たちが選定された。連合国軍との折衝のためにドイツ側は専門家委員会の創設が求められた。


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