ヒロ・ヤマガタ
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ヒロ・ヤマガタ/HIRO YAMAGATA(1948年5月30日 - )は、画家美術家である。滋賀県米原市出身。アメリカ在住。本名山形 博導(やまがた ひろみち)。

国内ではカラフルなシルクスクリーンアーティストというイメージが今なお強いが[要出典]、世界的にはむしろレーザーホログラムを使った現代美術家として知られ、先端的なイリュージョニストとして現在も活動している。 ヒロ・ヤマガタ制作「レーガン大統領肖像画」についてロナルド・レーガンとヤマガタが対談した。(1988年3月16日)
来歴
日本居住時代(1948-72年)

1948年材木屋の父のもと6人姉弟の3番目として産まれる。幼少の頃より画才を示す。

1955年、米原町立醒井小学校(現在の米原市立河南小学校)に入学。放課後には毎日美術の特別授業を受け、遊び場でもあった近所の寺の住職より老子道教などの教えを授かる。

1961年、米原町立河南中学校(現在の米原市立河南中学校)に進学。サイクリング好きが高じ、仲間と琵琶湖を周回するようになる。修学旅行では初めて東京に行き、都会の様子に衝撃を受け好奇心を刺激された。また、家業の手伝いで頻繁に入った山林では満天の星に魅了される。アマチュア天体観測家の父に感化され、自作望遠鏡宇宙観測に熱中するようになる。の世界にも傾倒する。

1964年滋賀県立米原高等学校入学。同校美術教師の日本画家・椙村睦親(すぎむらまさちか)に師事すると同時に、椙村先生の本棚で画家アンリ・ルソーの画集に出会い大いに影響を受ける。公募で多数の受賞を果たす一方で、大阪のネオン屋へ足を運んだり、蛍光灯を使った作品を制作するなど、に対する好奇心も加速。

1967年、高校卒業と同時に椙村睦親へ入門するが、同年単身で上京。アルバイト先の画材屋で才能を見出され、広告会社でデザインやイラストの仕事に就く。仕事の合間にサイコロや米粒に自分の作品を描いてリフレッシュしていたと言う話は有名。

1972年、五海祐治、崔洋一、篠毅らと共同で「JIM」を渋谷に設立。

ヨーロッパ居住時代(1972-78年)

1972年、恋人を追いかけミラノへ渡るが実らず、その後パリへ渡り定住。ルーヴル美術館に日参しながら、作品制作に没頭。ヒエロニムス・ボスピーテル・ブリューゲルの世界に衝撃を受ける。

1973年、パリの画廊と契約。同年、ウィーンで初の個展を開催。
以後、ロサンゼルスへ移住するまでパリを拠点に様々なサロンへ出展すると同時に、ヨーロッパ各地で個展を開催。この頃の作品は大半が水彩や油彩で、後に一世を風靡するリトグラフシルクスクリーンなどの版画はほとんど制作されていない。また、渡仏中の間章をはじめ、スティーヴ・レイシーなどの音楽家、ブライオン・ガイシンなどの詩人らの仲間と共にジャズに熱中。オーガナイザーメンバーとして公演開催のため私財を投げ打ち奔走。当時たまり場だったカフェでは詩人のアレン・ギンズバーググレゴリー・コルソーとも出会う。1974年には、レーザーを使ったインスタレーションをパリ市内の劇場で初めて実施している。
アメリカ居住時代(1978年-現在)

1978年ロサンゼルスの画廊と契約してロサンゼルスに移住。版画的技法のシルクスクリーンで、100色以上もの色を散りばめた鮮やかな多色作風により、一躍その名を馳せる。以降、アメリカ各地で個展を開き、アートEXPOへも出展するようになる。彼の作品の多くは、シルクスクリーンによる鮮烈な色彩が非常に印象的である一方で、作品中の細部の人物の顔など間近で見ないとわからないところまで緻密に描写され、繊細である。

1983年、「エア・ショー」が、レーガン大統領が名誉会長であった人類飛行200周年記念財団の公式ポスター作品に選ばれる。後に「ヤマガタ・ブルー」と称される鮮やかな色の世界を確立。

1984年、ロサンゼルス市観光誘致キャンペーン公式作品を制作。同年、ロードアイランド州が、9月21日を「ヒロ・ヤマガタの日」に定め、同州のウォリック市より名誉市民の称号が贈られる。同年、東京で初の個展が開催される。

1986年、ロサンゼルス市名誉市民に選ばれる。同年、レーガン大統領の依頼で「自由の女神100周年記念」のための公式作品を制作。同年、エドワード・ケネディ議員の呼びかけでケネディ財団主催のアートを通じた障害者支援チャリティープロジェクト「ベリー・スペシャル・アーツ」に参加。同年、東京、大阪、名古屋、横浜、福岡で巡回展を開催。

1987年、ヤマガタ財団設立。ケネディ財団と共同で身体障害者のチャリティイベントを開催。同年、「自選山形博導画集」が出版。

1988年、「オーストラリア建国記念」「エッフェル塔100周年」などの公式作品、レーガン大統領肖像画を制作。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシリーズ開始。

1989年、東京、静岡、名古屋、大阪で巡回展を開催。エリザベス・テイラーとの友情を通じてアメリカン・ファンデーション・オブ・エイズ・リサーチ(英語版)への寄付を開始。サンフランシスコ地震被災者救済のために「ファイアー・ワークス」の全売上を赤十字社へ寄付。

1990年アーノルド・シュワルツェネッガーがテキストを書いた英語版画集「YAMAGATA」が出版。「アメリカ移民200周年」、ベルリンの「フリーダム・キャンペーン」公式作品を制作。同年、メキシコシティ国立美術館(英語版)で個展開催。

1991年、「コロンブス新大陸発見500年記念」、世界陸上の公式作品を制作。同年、ニューヨーク映画記録保管所への経済支援を開始。同年、エイズ・チャリティー活動の一環としてエリザベス・テイラーと共に来日。

1992年バルセロナ・オリンピックの公式作品を制作。同年、米国ウォルト・ディズニーアートクラシックインクと契約。同年、金閣寺をモチーフに、京都「遷都1200年祭」の公式作品を制作。同年、障害を持つ人々の芸術活動の振興を行う国際組織「ベリー・スペシャル・アーツ」に600万ドルを寄付。

1993年、ジーン・ケネディ・スミスと共に「ベリー・スペシャル・アーツ」のインターナショナル・アート・フェステバル(ブリュッセル)に参加。同年、ジャック・ニクラスと共同でゴルフシ新シリーズの制作を発表。同年、エイズ・チャリティー・イベントのため来日。

1994年アレン・ギンズバーグらとビート・ジェネレーションに関するドキュメンタリー映画制作の企画を開始。同年、美しい自然のイメージをメルセデス・ベンツのヴィンテージ・カーに描き出し「アースリーパラダイス」としてロサンゼルス市立美術館で発表。なお、「アースリーパラダイス」は美術評論家サム・ハンターによる命名である。また、同展のためにアレン・ギンズバーグが『ヒロ・ヤマガタの聖霊 20世紀の自動車』と題する文章を寄稿(「アースリーパラダイス」の制作風景の模様を、映画監督ジョナス・メカス公式HPで見ることが出来る)。


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