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ヒロミ
本名小園 浩己(こぞの ひろみ)[1]
生年月日 (1965-02-13) 1965年2月13日(59歳)
出身地 日本 東京都八王子市
血液型A型
身長175cm
言語日本語
方言標準語、関東方言
師匠星セント
トリオ名B21スペシャル
相方デビット伊東
ミスターちん
芸風コント
立ち位置真ん中
事務所ビィーカンパニー
活動時期1986年 -
同期お笑い第3世代
現在の代表番組MC/レギュラー番組
『有吉ゼミ』
『東大王』
『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』
『ヒロミ・指原の“恋のお世話始めました”』
過去の代表番組『笑っていいとも!』
『ボキャブラ天国シリーズ』
『モグモグGOMBO』
『発掘!あるある大事典』
『8時だJ』
『火曜サプライズ 』
『アオハルTV』
『前略ヒロミ様』
『ウチのガヤがすみません!』
『バイキング』など
他の活動実業家
配偶者松本伊代(1993年 - )
親族小園凌央(長男)
公式サイト公式プロフィール
受賞歴
『ザ・テレビ演芸』第4代チャンピオン
「ゴールデン・アロー賞」 芸能新人賞
『第28回小学館・DIMEトレンド大賞「特別賞」』[19]
「リカベニストアワード2015」受賞
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Hiromi factory チャンネル
YouTube
チャンネル
Hiromi factory チャンネル
活動期間2019年 -
ジャンルお笑い 家族 DIY ライフスタイル 趣味
登録者数116万人[2]
総再生回数172,156,200回[2]
YouTube Creator Awards
登録者100,000人2019年12月
登録者1,000,000人2021年7月
チャンネル登録者数・総再生回数は
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ヒロミ(1965年〈昭和40年〉2月13日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、実業家、レーサー、YouTuber。株式会社「ビィーカンパニー」代表取締役社長。トレーニングジム「 ⇒スタジオ51.5」代表。オンラインショップ「ハチオウジ工務店」社長。「芸能文化人ガンクラブ」会長。八王子会代表。お笑いトリオ「B21スペシャル」のリーダーであり、関東を代表するお笑い第三世代。 本名は小園 浩己(こぞの ひろみ)[1]。東京都八王子市出身。プロダクション人力舎への所属を経て、ビィーカンパニーを設立。マネジメント業務は田辺エージェンシーが担当した後、2008年からはプロダクションノータイトル。妻は松本伊代。長男は小園凌央[3]。八王子出身の芸能人で構成されている八王子会の代表である。 2021年11月10日より工機ホールディングスジャパン株式会社(旧日立工機)のCCO(最高商務責任者(Chief Communication Officer))を務める[4]。 実家は工務店を営んでいた[5]。少年時代は照れ屋でおとなしく優しい性格だったが、兄が不良だったこともあり、中高校生当時は暴走族「八王子スペクター」の一員となり、八王子を拠点に活動していた。しかし18歳の夏に友人2人を乗せた自動車で大事故を起こした結果、内臓破裂による一時重体で生死の境をさまよう。この時、医者から家族にも「諦めて下さい」と伝えられたが、内臓(脾臓)を1つ摘出する長時間の難手術の末に一命を取り留める[6]。このことからヒロミの母は「あなたは長生きできないかもしれないから、好きな事をしなさい」と言われ自身も「好きなことをしよう」と、入院中にバラエティ番組を見て、自分でもやれると確信し、お笑い芸人になる事を決意。 1985年、お笑い芸人になるために、都内のホストクラブに勤務していたヒロミは、同僚の中からルックスの良いアイドル志望の伊東努(デビット伊東)と、ミュージカル役者&ダンサー志望だった三宅康敏(ミスターちん)に声を掛け、必死で彼らを口説き落としてお笑いの道に引き込む。こうして1986年、コントグループB21スペシャルを結成。オシャレ感のない当時の若手芸人らとの区別をするため、衣装はDCブランドにしようというのはヒロミの発案であった。 その後、アルバイト先の新宿のショーパブの客から、ビートたけしと星セントを紹介された。敢えて尊敬するビートたけしではなく星セントを選び師事。その理由は「この3人で勝負したかったから」だという。最初の新宿のショーパブから、当時最も人気が高く、事務所やテレビ関係者が訪れていた六本木のショーパブ「バナナパワー」に移籍後に評判となった。店のスタッフがグッズを製作するなど、他の出演芸人が羨むほどのバックアップを受け(浅草キッド談)、新人ライブで勝ち抜いて名を馳せて行く。本格的にテレビ界へ進出すべく、横山やすしが司会を担当していた演芸番組『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)に出演。「飛び出せ笑いのニュースター10週勝ち抜きシリーズ」にて10週連続で勝ち抜き、第4代目チャンピオンを獲得した。最終週で披露したネタ「六本木ステーション」は、審査員を担当していた糸井重里に「ネタだけなら今売れている芸人の誰にも負けない」と言わしめる。結果的に、下積み時代がほとんど無く、B21スペシャルはアイドルのような見た目とテンポの良いコントで評価され、視聴者に広がった。ヒロミ自身、一度死にかけた経験からか怖いもの知らずであったことから、先輩にも毒舌を繰り出し、強気のツッコミを武器にテレビの世界で人気を博す。 さらに1988年頃から巻き起こったお笑い第三世代ブームに乗り、一躍、西のダウンタウン、東のウッチャンナンチャンと並ぶ人気お笑いグループとなった。当時、ダウンタウン・ウンナン・B21の3組の持ち回りでレギュラーの入れ替えが行われる番組が多くあった。1990年にゴールデン・アロー賞芸能新人賞を受賞した。同年、歌手としてテイチクレコードから『お世話になりました』をリリース。1991年『ふざけろ!』で映画主演デビューも果たす。 この頃、すでに多くのレギュラー番組や冠番組を抱え、飛ぶ鳥を落とす勢いのヒロミたちであったが、1991年9月放送の自身のバラエティ番組『1or8』(フジテレビ)にて、大量のロケット花火を背負って宇宙へ行こうという企画「ヒロミ宇宙へ」に挑戦した際、僅かに浮き上がるも、III度の深度の深い大火傷を負って入院し、またも生死を彷徨う事になる。この事故の影響で、番組も打ち切りとなったが、懸命のリハビリの末に復帰した。この時に支えてくれたのが木梨憲武(とんねるず)や藤井フミヤであった。 1992年、デビュー時から所属してきた人力舎から独立。ヒロミを代表取締役とした個人事務所「ビィーカンパニー」を設立。マネジメント業務は田辺エージェンシーが担当した。この頃、ヒロミがメンバーと社員の給与を払うため、これまで断ってきたピン芸人としての仕事も引き受けるようになり、番組の司会者への抜擢が多くなる。 2004年7月24日から25日にかけて放送された『FNS27時間テレビ』のコーナー「生・笑わず嫌い王決定戦」で、10数年ぶりにB21スペシャルとして復活しコントを披露した。しかしこれと同時期にごく一部のゲスト出演などを除いて芸能界から姿を消す。この大きな理由としては親友だった吉野晃章の病死でショックを受けたことを挙げている[10][11]。芸能界から離れたヒロミは、加圧トレーニングジムや岩盤浴の経営などに従事。芸能活動休止までの間は天狗になっていたが、経営者として仕事をするうちに、ヒロミは優しさや労いの気持ちを持つようになった[12]。2014年以降、テレビバラエティに本格復帰[13]。前年9月に東京オリンピックの開催決定した事が転機になったと語っている[14]。また、休業中も連絡を取っていた中居正広から「いい加減にテレビ出たらどうですか?」と復帰を勧められていたことも関係しており[12]、復帰直後からの節目で共演している。
概要
来歴
人物・芸風
若手時代から、MCの番組や冠番組を任されており、現在でも司会者として多くの番組を持っている。お笑い第三世代ブーム時に関東の代表的な芸人の1人。芸風は先輩芸人やタレントにもタメ口や呼び捨て、愛称、ちゃん付け[注 1] などの尊大かつ上下関係や礼儀を一切考慮しないように接する芸風が特徴[注 2]。大物にも容赦ない言動で強烈なツッコミを行うスタイルで注目を浴びた。芸能活動再開後、持ち前のトーク力と毒舌の中に優しさ、後輩たちへの男気がある芸風となっている。
芸能界では、木梨憲武や藤井フミヤとは公私ともに家族ぐるみで非常に仲が良く「憲ちゃん」、「フミ」と呼ぶ程である。互い親友や親戚と語っている。
ジャニーズの番組もMCを担当していた事もあり、『8時だJ』(テレビ朝日)で共演した滝沢秀明(元ジャニーズアイランド社長)からは「棟梁」と慕われ、元SMAPの中居正広や松岡昌宏(TOKIO)などもヒロミの喋り方やトークを真似しており、「兄貴」や「師匠」と呼び、最も憧れた存在にヒロミを挙げている。AKB48にも携わっており秋元康とも仲が良い。八王子出身者からも慕われ、八王子会を定期的に開催している。
非常に多趣味として有名であり、射撃、DIYやアウトドア、ゴルフ、マリンスポーツ、レーシングドライバー、バイクなど。所持ライセンスは多く、小型2級船舶、特殊船舶免許、カリフォルニア州自動車免許、銃所持許可証、大型自動二輪、スカイダイビング2級ライセンス、スノーボード検定2級、スキューバーダイビングオープンウォーター、ライフセーバーライセンスと多彩。火傷事件のリハビリのために始めたものが多いことは知られていない。
愛妻家として有名である。
子役や新人タレントなどには親切であり、芸能界にデビューしたてだった水野裕子は初レギュラーだった番組で世話になったことから、恩人としている。鈴木紗理奈はデビュー当時、誰も知らない自分にネタを振ってもらい、大恩人と語っている。木村卓寛(天津)が仕事が無いと困っていた所、専属運転手として雇って、番組に呼んだりもしている。
元暴走族(八王子スペクターに所属していた)で、本人も過去の出来事を話すなど、それをよくネタにしている。恐喝などの話をネタにすることが多かった[15]。同じ時期に活動していたブラックエンペラーの宇梶剛士が芸能界入りしたことに非常に驚いたと語っている。