ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
[Wikipedia|▼Menu]

ビンゲンの聖ヒルデガルト
『道を知れ』の挿絵。
神からの啓示を受けているヒルデガルトと、書記のフォルマール。
この絵は修道女達によって描かれたとされる。
教会博士、神秘家、修道女
生誕1098年
神聖ローマ帝国
ラインラント
ベルマースハイム
死没1179年9月17日
神聖ローマ帝国
ビンゲン・アム・ライン
崇敬する教派カトリック教会
列聖日2012年10月7日
列聖決定者ベネディクト16世
記念日9月17日
テンプレートを表示

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンまたはビンゲンのヒルデガルト(: Hildegard von Bingen, ユリウス暦1098年 - ユリウス暦1179年9月17日)は、中世ドイツベネディクト会女子修道院長であり神秘家作曲家。史上4人目の女性の教会博士[1]

神秘家であり、40歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験(visio)をし、女預言者とみなされた。50歳頃、ビンゲンにて自分の女子修道院を作る。自己体験を書と絵に残した。

医学薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる[2]。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリア軍医ヘルツカ(ドイツ語版)により再発見された。世に知られた最初のドイツ人博物学者とされる[3]。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされ、近年グレゴリオ聖歌と並んで頻繁に演奏されCD化されている。神秘主義的な目的のために使われたリングア・イグノタという言語も考案した。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われる。
生涯活動地 マインツ近郊ザンクト・ディジボード修道院址(オーデルンハイム、ディジボーデンベルク)活動地拡大

1098年神聖ローマ帝国のドイツ王国、ラインラントのアルツァイ近く、マインツ大司教区・ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メヒティルト(Mechtild)の10番目の子供として生まれる[4]。洗礼名はヒルデガルト。出生地については両親の出身地であるベッケルハイム(Bockelheim)という記述もあり[5]、ディジボーデンベルク近くのベッケルハイム城の在った現在のシュロスベッケルハイム(Schlosbockelheim)と思われるが、詳細は不明である。

1106年より同大司教区オーデルンハイム(Odernheim)のディジボーデンベルク(Disibodenberg)にあるベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイム(Jutta von Sponheim)に育てられる[4]。ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族(シュポンハイム伯シュテファン1世の娘)で[6]、兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイム(ドイツ語版)がいる。姓については、シュパンハイム(Spanheim)とシュポンハイム(Sponheim)の両方の記述がある[注釈 1]

後に、彼女の教育にはザンクト・ディジボード男子修道院の修道士フォルマール(Volmar)が加わった[注釈 2]。ユッタは敷地内に女子修道院を設立して院長となった。1136年にユッタが死去すると、ヒルデガルトが女子修道院の院長に就任した[7][4]

1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒャルディス・フォン・シュターデ(Richardis von Stade)の援助の下、『道を知れ』 (Scivias) の執筆を開始し、自らの幻視体験[6](後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」(umbra viventis lucis))を初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験がマインツ大司教ハインリヒの知るところとなる[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef