ヒュー・トレヴァー=ローパー1975年
人物情報
生誕1914年1月15日
ノーサンバーランド地方
死没 (2003-01-27) 2003年1月27日(89歳没)
オックスフォード
食道癌
国籍 イギリス
出身校オックスフォード大学
学問
時代20世紀
研究分野近世イギリス、ナチス・ドイツ
称号陸軍少佐
男爵
主な受賞歴イギリス学士院フェロー
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グラントンのデイカー男爵ヒュー・レドワルド・トレヴァー=ローパー(Hugh Redwald Trevor-Roper, Baron Dacre of Glanton, 1914年1月15日 - 2003年1月27日)は、イギリスの歴史家。専門は近世イギリスとナチス・ドイツ。 トレヴァー=ローパーはイングランドのノーサンバーランド地方の小村グラントンに医師の息子として生まれ、チャーターハウス校とオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで西洋古典学と近代史学を学び、その後同じオックスフォード・マートン・カレッジ (en
青年期
第2次世界大戦中、トレヴァー=ローパーはイギリス情報局秘密情報部(MI6)のラジオ・セキュリティ部門の将校として従軍し、ドイツの諜報機関アプヴェーアから流されるメッセージを傍受する任務についた。大学知識人出身の諜報部員の多くと同様、彼の仕事ぶりに対する周囲の期待は低かったが、諜報部員としての才能を開花させて軍から高い評価を得た。 1945年11月、トレヴァー=ローパーはMI6の上官ディック・ホワイトから、アドルフ・ヒトラーの死の状況を調べ、そのうえでソ連政府によるヒトラーは西側世界のどこかで生きているというプロパガンダに対する反証を成立させるように命じられた。トレヴァー=ローパーはメイジャー・アウトン(Major Oughton)という偽名を使い、総統地下壕の中でヒトラーと最後に会った人々に対する聞き取り調査を行った。彼らは最後の時になって地下壕から逃れてきた人々であり、その中にはベルント・フライターク・フォン・ローリングホーフェンもいた[2]。1947年、この調査の成果として、トレヴァー=ローパーは総統ヒトラーの最後の10日間を追った『ヒトラー最後の日』を出版した。これはトレヴァー=ローパーの著書の中で最も有名な作品である。トレヴァー=ローパーは、『ヒトラー最後の日』がヒトラーのカリスマぶりを強調しすぎていると受けとめたレヒから殺すと脅されたが、ユダヤ組織の報復を恐れて及び腰になっていたドイツ人の著作家たちは、トレヴァー=ローパーの著作の挑戦的な内容に勇気づけられた[3]。 トレヴァー=ローパーはアドルフ・ヒトラーがある種の政治目標を持っていたのかどうかに関しての、A・J・P・テイラーやアラン・ブロックの主張に批判の矛先を向けた。1950年代、ヒトラーを「山師」として描いたブロックに対して、ヒトラーを政治的イデオローグだと考えていたトレヴァー=ローパーは残酷なまでに強烈な批判を浴びせた。テイラーが1961年に自身の著作において、ブロックと似たようなヒトラー像を描き出すと、今度はトレヴァー=ローパーとテイラーの間で似たような論戦の応酬が行われた。 アドルフ・ヒトラーがヨーロッパ大陸のみを征服しようとしていたとする大陸制覇論と、世界全体を支配下におこうとしたとする世界制覇論との争いにおいて、トレヴァー=ローパーは大陸制覇論の中心人物だった。彼は世界制覇論は数十年の広いスパンにおけるヒトラーの発言を切り貼りして作り上げられたもので、ヒトラー評価に関する固定的なイデオロギーになろうとしつつある、と主張した。トレヴァー=ローパーは、ヒトラーはヨーロッパを影響下におこうとしていたとする大陸制覇論のみが客観的であると考えていた。 トレヴァー=ローパーは1973年、第1次世界大戦を起こした責任の大部分はドイツにあるとしたジョン・C・G・レール 67歳になった1980年、トレヴァー=ローパーはケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジ
ヒトラー研究
「ヒトラー最後の日々」の調査
ヒトラー研究に関する諸論争
偽「ヒトラーの日記」事件
1983年、トレヴァー=ローパーの輝かしいキャリアは、「タイムズ」誌の協力者としていわゆる「ヒトラーの日記」を本物と「認めた」ことで、失墜することになった。「ヒトラーの日記」の真贋に関する他のヒトラー研究の専門家たちの意見は分裂していた。例えば、デイヴィッド・アーヴィングは当初はこの「日記」を偽書だとして非難したが、その後に意見を変えて本物だと主張した。その他の2人の専門家、エーバーハルト・イェッケル (en) とガーハード・ワインバーグ (en) も、「日記」に本物とのお墨付きを与えていた。しかしトレヴァー=ローパーの承認から2週間と経たないうちに、法科学者のジュリアス・グラント (en) が、日記が明白に偽物だということを証明した。この事件でトレヴァー=ローパーが恥辱をこうむると、ピーターハウス・カレッジの敵対者たちやその他の人々は、公然と彼を嘲笑した。
トレヴァー=ローパーが真偽不明の日記を早々に本物だと認めてしまったことで、世論は彼の歴史家としての洞察力のみならず、その清廉潔白ささえも疑うようになった。その理由は、トレヴァー=ローパーが書評を寄稿し、また彼に独立製作顧問の地位を与えていた「サンデー・タイムズ」 (en) 紙が、大金を積んでこの日記を連載する権利を得ていたことである。トレヴァー=ローパーは日記の承認はいかなる不純な動機からでもないと訴え、日記の「発見者」からの入手経緯についての説明から、ある程度の確証を得たのだが、この確証は間違っていたのだと述べた。風刺雑誌「プライベート・アイ」 (en) 誌は、トレヴァー=ローパーに「Hugh Very-Ropey(ダサいヒュー)」というあだ名を付けた。この事件はトレヴァー=ローパーの研究者としてのキャリアを大きく傷つけたが、彼はそれでも研究と執筆活動を続け、その著作は高い評価を受け続けた。
1991年、イギリスではこの事件を基にしたテレビドラマ「Selling Hitler」が製作され、アラン・ベネット (en) がトレヴァー=ローパーを演じた。同番組で、日記の「発見者」を装ったドイツ人記者ゲルト・ハイデマン (en) を演じたのはジョナサン・プライス、「日記」を偽造したイラストレーター、コンラート・クーヤウ (en) を演じたのはアレクセイ・セイル (en) だった。 トレヴァー=ローパーの近世ヨーロッパ史研究における主要なテーマは、近代的精神の形成、宗教論争とプロテスタントおよびカトリック諸国の間に生まれた深い亀裂、以上の二つであった。彼はこれらの研究を元に以下のような持論を展開した。ヨーロッパの宗教的な分裂が経済的、政治的、構造的に啓蒙理性の形成を加速させた。同時期に起きたヨーロッパの海外膨張は、そうしたプロセスの中で副次的に起こってきたものに過ぎない。
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