ヒュー・オニール_(第2代ティロン伯)
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ヒュー・オニール(1570年、作者不詳)

第2代ティロン伯ヒュー・オニール(アイルランド語: Aodh Mor O Neill、: Hugh O'Neill, 2nd Earl of Tyrone、1565年頃 - 1616年7月20日)は、アイルランドのオニール一族の族長(「The O'Neill」)。イングランドテューダー朝によるアイルランド征服 (en) に対抗して、第10代キルデア伯トマス・フィッツジェラルド (en) の反乱以来イングランドを最も脅かせたアイルランド九年戦争 (en) を指導したことで知られる。
初期の生涯

ヒュー・オニールは、イングランドから族長の家系と認められ、ティロン伯の爵位を授与されたオニール一族の父系集団 (Derbfine) の出身。父親は初代ティロン伯コン・オニールの非嫡出子と噂されるマシューで、ヒューはその次男だった[1]。アイルランドの法体系では嫡出・非嫡出は問題とされないにもかかわらず、マシューの弟にあたるシェーン・オニール (en) はことあるごとにマシューの非嫡出問題を取り上げた。しかし、マシューはコンから息子と認知されていたため、シェーン同様、オニール一族の族長権を持っていた。こうした継承に関する争いの中で、マシューがシェーンの仲間に殺害された。コンはこの危機的状況の中にヒューを置き去りにして、自分の領土から逃げ出した。ヒューが頼ることができたのは、ゲール人一族の自治力を弱め、「降伏と再授封 (Surrender and regrant) 」政策によってイングランドのシステムの中にゲール人を組み込もうとしていたイングランドの手先のダブリン行政府しかなかった。

1562年にはヒューの兄弟ブライアンがシェーンに殺された。ヒューはブライアンの跡を継いでダンガノン男爵になった。ヒューはイングランドではなく(誤ってそう伝える話がいくつかある)、ザ・ペイル (The Pale) でHoveneden家によって養育された。1567年にシェーンが死ぬと、アイルランド総督サ・ヘンリー・シドニー(英語版)の保護でヒューはアルスターに戻った。ティロンではヒューの従兄弟ターロック・オニール (en) がシェーンの跡を継いでオニール族の族長となっていたが、イングランドはそれをもってターロックをティロン伯とは認めなかった。イングランドはアルスターを支配するゲール人同盟者として、ヒューを正統なティロン伯として支持した。1580年マンスターで起きた第二次デズモンドの反乱 (en) で、ヒューはイングランド軍に混じってデズモンド伯ジェラルド・フィッツジェラルド (en) と戦い、1584年にはアルスターのスコットランド人と戦うサー・ジョン・ペロット (en) の加勢をした。1585年、ヒューはティロン伯としてダブリンのアイルランド総督邸での会議へ招かれた。1587年、イングランド王宮への訪問後、ヒューは初代ティロン伯である祖父コンの土地を授封された。ターロックとの絶え間ない論争は、オニール一族の力を弱めたいイングランドによって助長されたが、ヒューが勢力を伸ばし、1595年、ターロックがオニール一族の族長から退位することで合意を見た。Tullyhogue(Tulach Og)で、ヒューは、昔のゲール王たちのしきたりに従ってオニール一族族長に就任し、アルスターで最強の貴族になった。

ヒューの生涯で特筆すべき点は、その二重性である。ある時はイングランドの権威に服従し、ある時は他のアイルランド貴族たちとイングランドに対して謀反を企てた。若い頃はダブリン行政府に完全に支持されていたが、ヒューにとっては、イングランドとの同盟も、アイルランドの反乱も、身の安全を保証してくれるものではなかった。

その予感は的中し、1590年代のはじめ、イングランド政府はニューリー (en) 在住の入植者ヘンリー・バゲナル (en) 指導による地方行政制をアルスターに導入した。1591年、ヒューとバゲナルの妹メイベルとの駆け落ちがバゲナルの怒りをかきたてたが、1593年、ベリーク (en) でのヒュー・マグワイア (en) との戦いで、ヒュー・オニールは義兄を軍事的に支援・勝利し、バゲナルおよびイングランドに対する忠誠心を示した。しかしメイブルの死後、ヒュー・オニールは徐々に現状への不満を募らせ、1595年、イングランドとは1585年から戦争状態にあり、アルマダの海戦の復讐に燃えるスペイン、およびスコットランドに援助を求め、反乱を起こした。イングランドは反乱の鎮圧のため、サー・ジョン・ノリス (en) 率いる大軍をアイルランドに送ることにした。しかし、その準備が整う前にヒューはブラックウォーター要塞攻略に成功した。このことでヒューはダンドーク (en) で裏切り者の宣告を受けた。この反乱が「アイルランド九年戦争」の幕開けであった。
アイルランド九年戦争レッド・ヒュー・オドンネル(Gavigan)エセックス伯(アイザック・オリバー画、1590年代)マウントジョイ男爵チャールズ・ブロント(当時の肖像画)

ヒューは、傭兵に頼るよりむしろ人民を武装化させるべきというシェーンの方針に従って、スペインとスコットランドから提供された火縄銃と火薬で立派な軍隊を作りあげた。1595年のコンティブレットの戦い (en) では、イングランド軍を待ち伏せ、総崩れにし、イングランドに衝撃を与えた。ヒューと他のアイルランド族長たちはフェリペ2世に対して、アイルランド王になってくれるよう要請したが、フェリペ2世はそれを断った。

オドンネル一族はかねてからオニール一族の旧敵であった。しかしヒューはそのオドンネル一族の族長レッド・ヒュー・オドンネル (en) (その父ヒュー・オドンネル  (en) はシェーンの同盟者かつ敵であった)と同盟を結び、二人してフェリペ2世と連絡を取り合った。しかしその手紙の一部が配達の途中でサー・ウィリアム・ラッセルに奪われた。手紙には、カトリック教会に対してアイルランド人の政治的自由と道徳心の自由を訴え、支持を乞う内容が書かれていた(つまり宗教戦争の色合いもあった)。1596年4月、ヒューはスペインから支援の約束を取り付けたうえで、一転、イングランドに対して忠誠を誓った。現状ではイングランドとの妥協が得策と考えたからである。この方針は成功だった。サー・ジョン・ノリスはヒューをイングランドに連れて行こうとしたが、ヒューは二年間それを延期させ、自国領内にとどまった。

1598年、休戦が決まり、ヒューはエリザベス1世から正式の恩赦を得た。しかし、その2ヶ月後にはヒューは再び戦場にいて、8月10日には、ブラックウォーター川のイエロー・フォードの戦い (en) でイングランド軍を壊滅させ、その戦闘でヘンリー・バゲネルは戦死した。これはアイルランドにおけるイングランド軍の傷手のうちでも最大級のものだった。もし、ヒューがこの戦勝をうまく利用することができたら、アイルランドのイングランド軍を打ち負かすことができたかも知れない。なぜなら、イングランドに対する不満はあちこちで噴出していて、とくに南部ではジェームズ・フィッツトマス・フィッツジェラルドがデズモンド伯の権利を主張していたところだったからである。ヒューの戦場における指揮官としての名声はヨーロッパでも次第に高まりつつあったが、現実的には、外国の干渉が必要で、それはまだヒューには出来なかった。

イエロー・フィールドの戦いの8ヵ月後、新たにアイルランド総督となったエセックス伯ロバート・デヴァルーが17000人の大軍を率いてアイルランドに到着した。


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