Hugh Everett IIIヒュー・エヴェレット3世
生誕 (1930-11-11) 1930年11月11日
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
死没1982年7月19日(1982-07-19)(51歳没)
アメリカ合衆国 バージニア州マクレーン
ヒュー・エヴェレット3世(Hugh Everett III、1930年11月11日 - 1982年7月19日)は、アメリカ合衆国の物理学者である。1957年の博士論文で量子力学における多世界解釈を提唱したことで知られる。
博士号取得の前年に国防総省の研究職に就き、卒業後は物理学の研究に戻らなかった[4]。その後、オペレーションズ・リサーチにおける一般化ラグランジュ乗数の利用法を開発し、軍事アナリストやコンサルタントとしてこれを商業的に応用した。1952年に51歳で死去した。イールズのEことミュージシャンのマーク・オリヴァー・エヴェレット(英語版)は息子である。
エヴェレットの物理学における業績は、エヴェレットが亡くなる直前までほとんど注目されていなかった。1970年代に量子デコヒーレンスが発見されたことによって多世界解釈が注目されるようになり、コペンハーゲン解釈、パイロット波理論、無矛盾歴史と並ぶ量子力学の主要な解釈(英語版)の一つになった。 エヴェレットは1930年11月11日にワシントンD.C.で生まれ、そこで育った。父はヒュー・エヴェレット・ジュニア、母はキャサリン・ルシル・エヴェレット(旧姓ケネディ)である。幼少期に両親が別居し、エヴェレットは当初は母親の下で育てられたが、7歳からは父親とその再婚相手のサラ・エヴェレット(旧姓スリフト)に育てられた[5]。 12歳の時、エヴェレットはアルベルト・アインシュタインに宛てて手紙を書き、動かせない物体と止めることのできない力がぶつかったどうなるかというパラドックスを解決したと記した[6]。アインシュタインからは次のような返事が届いた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}親愛なるヒューへ: 止めることのできない力や動かせない物体のようなものは存在しません。しかし、この目的のために自ら生み出した奇妙な困難を無理やり通り抜けた、とても頑固な少年はいるようです。敬具 A・アインシュタイン[7] エヴェレットは、奨学金を得てワシントンD.C.のセント・ジョンズ・カレッジ高校
若年期と教育
第二次世界大戦中、エヴェレットの父は参謀本部の中佐としてヨーロッパで戦い、終戦後も西ドイツに駐在していた。1949年、エヴェレットは大学を1年間休学してに父の元に滞在した。親子ともに復興中の西ドイツの写真を大量に撮影したが、技術的な興味から撮影したものであり、ほとんどの写真に人物は写っていなかった[5]。
1953年にアメリカ・カトリック大学を卒業した。卒業時に取得したのは化学工学の学位だったが、数学も学位を得るのに十分な課程を修了していた。 エヴェレットは全米科学財団の奨学金によりプリンストン大学大学院に進学した。プリンストンでは数学を専攻し、アルバート・タッカーの下で黎明期のゲーム理論の研究に取り組んだが、次第に物理学に傾倒していった。エヴェレットは1953年に初めて物理学の授業(ロバート・H・ディッケの「量子力学入門」など)を受講した[5]。1954年にユージン・ウィグナーの「数理物理学の方法」を受講した。エヴェレットは数学の研究も続けており、同年12月に軍事ゲーム理論に関する論文を発表した。1955年春に修士号を取得した。 1955年に指導教官がジョン・ホイーラーに交代した。量子論に関する短い論文をいくつか書いた後、1956年4月に「確率のない波動力学」(Wave Mechanics Without Probability)という長い論文を完成させた[8]。 プリンストン大学に入学して3年目、プリンストンの1年目から友人となったヘイル・トロッター
プリンストン大学
この頃、エヴェレットはナンシー・ゴア(Nancy Gore)と出会った。ナンシーはエヴェレットの手書きの論文「確率のない波動力学」のタイピングを行った。2人は出会った翌年に結婚した[10][11]。この論文は後に『普遍的波動関数理論』(The Theory of the Universal Wave Function)に改題された。
指導教官のホイーラーは1956年6月に量子論の研究の本場であるコペンハーゲンを訪問した。そこでエヴェレットの研究を披露して好意的な評価を得ようとしたが、失敗に終わった[12][13]。
1956年6月から国防総省の兵器システム評価グループ(英語版)(WSEG)で働き始めた。1年以内に博士号を取得することが就労の条件だったため、1957年4月、博士論文を提出するためにプリンストンに戻った。口頭試験は4月23日に行われた。首席審査員のホイーラー、ヴァレンタイン・バーグマン(英語版)、H・W・ウィルド、ロバート・H・ディッケはエヴェレットについて次のように評した。彼は非常に難しい問題を扱い、自身の結論を堅固に、明確に、論理的に主張した。彼は、著しい数学的能力、論理分析の鋭敏さ、高い表現力を示した[11]。
エヴェレットはプリンストン大学で物理学の博士号を取得した。博士論文のタイトルは「量子力学の基礎について」(On the foundations of quantum mechanics)である[14]。