ヒューバート・ウォルター
カンタベリー大司教
カンタベリー大聖堂外部にあるウォルター大司教像
着座1193年
離任1205年7月13日
個人情報
出生不明
死去1205年7月13日
ヒューバート・ウォルター(Hubert Walter, ? - 1205年7月13日)は、イングランドの政治家・聖職者である。リチャード1世(獅子心王)に仕え、カンタベリー大司教兼大法官という聖俗最高の役職を兼務して、宰相の任務を務めた。 叔父グランヴィル (en:Ranulf de Glanvill
来歴
帰国したリチャードはわずか2ヶ月のイングランド滞在の後にフランスへ渡り、対立するフランス王フィリップ2世との戦いで各地を転戦する。留守を任されたウォルターは新税制の導入や土地調査によって財政収入の増加を目指す一方、法制の充実に努め、後の治安判事の前身となる「コロナー制」の導入などによって地方の有力者を地域の司法・行政に参画させるなどの内政・財政面での改革に手腕を振るった。だが、1198年に新しくローマ教皇となったインノケンティウス3世との対立から、一旦大法官辞任に追い込まれてしまう。
1199年、リチャード1世が戦死してしまう。リチャードの後継の候補としては甥のアーサーが存在した。だが、アーサーの後見人には、リチャードと領土をめぐり敵対していたフランス王フィリップ2世が就いており、リチャードは死に際して弟のジョンを次のイングランド王に指名した。イングランドの独立が侵されることを恐れたウォルターも、前王の遺言どおりジョンを次のイングランド王に擁立した。新王は再びウォルターを大法官に任じた。大法官に復帰したウォルターは、それまでのイングランドには存在しなかった、国王の命令を文書化して大法官が保管するという規則を制定するなど、行政の効率化を図った。
1205年、ウォルターが死亡すると、インノケンティウス3世の任じた後任のカンタベリー大司教の就任をジョンが拒否したことから破門騒動へと発展し、さらにフランス王フィリップ2世との戦いでの敗北も加わって、イングランド国内は政治的混乱に陥ることになった。
更新日時:2018年8月18日(土)10:42
取得日時:2019/02/22 16:38