ヒューゴー・ガーンズバック
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ヒューゴー・ガーンズバック
ラジオニュース』1928年11月号の表紙に描かれたガーンズバック。自身の放送局 WRNY から放送されているテレビを見ている様子。
現地語名Hugo Gernsback
ペンネームBeno Ruckshagg, Erno Shuckbagg, Grace G. Hucksnob, Grego Banshuck, Greno Gashbuck, Gus N. Habergock, Kars Gugenchob
誕生Hugo Gernsbacher
(1884-08-16) 1884年8月16日
ルクセンブルク ルクセンブルク市
死没1967年8月19日(1967-08-19)(83歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン
職業発明家、雑誌出版者・編集者、作家
国籍 ルクセンブルク アメリカ合衆国
活動期間1911年 - 1967年(SF作家として)
ジャンルサイエンス・フィクション
ウィキポータル 文学
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ヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback、[????rnz?bak]、1884年8月16日 - 1967年8月19日)は、ルクセンブルク出身のアメリカ合衆国発明家著作家、雑誌出版者・編集者であり、世界初のSF雑誌などの雑誌出版で知られている。サイエンス・フィクションのジャンルにおける貢献は、作家としても出版者としても非常に大きく、小説家のH・G・ウェルズジュール・ヴェルヌと並んで「SFの父」と呼ばれることもある[1]。SF界で著名なヒューゴー賞は、ガーンズバックにちなんで名づけられている[2]
若年期と教育

ガーンズバックは1884年8月16日に、比較的裕福なワイン商の息子フーゴー・ゲルンスバッハー(Hugo Gernsbacher)として、ルクセンブルクで生まれた[3]。一家はユダヤ系だった[4]

子供のころ、父のワイン醸造所の雑役夫が呼鈴システム(ベル、電線、バッテリー、押しボタンで構成)を工事している様子をつぶさに観察し電気に興味をもった。やがて通信販売で工作部材を集め、ドア・ブザーと簡易インターフォンを考案し、それを隣家に付けては小遣い銭を得るようになった。また12歳のときに(男子立入り禁止の)女子修道院のインターフォン・システムを請け負ったが、まもなく13歳となったためローマ教皇より特別の許しを得て工事を続行し完成させたという[5][6][7]

ガーンズバックはブリュッセルの全寮制学校を卒業し、ドイツのビンゲンにある工科大学で電気工学を学んだ。はじめての無線実験の経験はこの大学でのことだった。
業績
発明家

高性能の新型バッテリーを発明し、これを商品化するために1904年2月にアメリカに移住し、後に帰化して英語風にヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)に改名した[8]

1904年秋、ガーンズバックは新型バッテリーの売込み中に、欧州では当たり前の電気部品が米国では品薄なことに気付き、ニューヨークにThe Electro Importing Companyを設立して、輸入電気部品の通信販売を手掛けるようになった[9]。1905年、ガーンズバックはドイツ時代の無線実験の経験をもとに、世界初となる一般大衆向け無線電信機「テリムコ」の開発と商品化に成功した[5][6][7]。「テリムコ」は今でいうところの短波から超短波帯の火花送信機コヒーラ受信機が組になった商品で、同年11月に雑誌広告を出し、全米へ通信販売をはじめた[10]。先進諸国では電信法や電波法により政府が電波を管理していたが、唯一アメリカだけは電波の使用を国民の自由に任せていた。そのため無線機の操作資格や許可証は不要であり、テリムコ無線電信機は「大衆の無線機」として大ヒットとなった。
雑誌編集者

初期のテリムコ・ユーザーは自己の送信機と受信機で到達距離を試していたに過ぎなかったが、1907年頃より趣味・娯楽として相互交信を楽しむ「アマチュア無線」が子供たちにより形成されていった。通信販売事業においては、いかに魅力的な商品カタログを仕上げるかが重要である。また販売部品の使用方法や技術解説などを丁寧にドキュメント化する必要もある。ガーンズバックはこれらの作業を通じて、無線通信や無線実験を専門とする月刊雑誌を編集・出版することを思い立ったのである。

1907年頃のアメリカにはいくつもの科学雑誌や電気雑誌はあったが、無線専門誌はまだなかった。1908年4月、一般大衆に無線界の最新ニュースを提供すると同時に、無線知識の啓蒙を目的とする、世界初の無線専門雑誌『モダン・エレクトリックス』(1908年 - 1914年)を創刊した[11]。この雑誌の表紙にはこれはカタログであると書かれているが、記事、特集、プロットラインが含まれており、ほとんどの歴史家は、雑誌としての資格が与えられると述べている[12]。ガーンズバックの狙いは的中し、学生を中心に無線実験が全米に広まった。

その後もガーンズバックは、『エレクトリカル・エクスペリメンター』(The Electrical Experimenter, 1913年 - 1920年)、『ラジオ・アマチュア・ニュース』(Radio Amateur News → Radio News → Radio & Television News, 1919年 - 1959年)、『サイエンス・アンド・インヴェンション』(Science and Invention, 1920年 - 1931年)といった無線雑誌を次々に創刊した。
アマチュア無線の先駆者

ガーンズバックは1908年12月に発売された『モダン・エレクトリックス』(1909年1月号)で読者に呼びかけて、無線通信の発展を目的とするアメリカ無線協会(Wireless Association Of America, WAOA)を創設し、全米のアマチュア無線家を組織した。その会長を三極真空管の発明者として知られたリー・ド・フォレスト(Lee de Forest)に依頼した。WAOAは営利を目的とせず、自分の無線局(受信専門局を含む)を持っている米国籍の無線実験家であれば誰でも入会でき、会費は無料である[13]。1909年末にはWAOAの会員数が3000に達した。ちょうどアマチュア無線の電波が海軍局に混信を与えることが大きな社会問題となり始めた頃であり、WAOAのガーンズバックとド・フォレスト会長は、短波帯にいたアマチュアたちが、海軍局や商業局が使う低い周波数に降りてくることを自粛し、無益なトラブルを避けるべきだと指導していた[14]

1909年5月、ガーンズバックはWAOAよりコールブック(無線局名録)"Wireless Blue Book" を出版した。全世界の無線局名録としては米国海軍省が1906年より毎年発行しているが、民間組織による発行はこれが最初である。またWAOAのものにはアマチュア局も収録されており、アマチュア無線のコールブックとしても世界最古のものである。

1909年12月に電波を国家管理するロバーツ法案が提出されたが、これにはアマチュア無線の禁止が含まれていたため、ガーンズバックが反対運動を始めた[15]。軍用局や商業局へ混信を与える「学生小児実験家」(アマチュア無線家)を締め出す法案と、それに反対するガーンズバックの様子が、日本の逓信省職員の機関誌ともいえる『通信協会雑誌』で伝えられている[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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