ヒトラー暗殺計画
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ヒトラー暗殺計画(ヒトラーあんさつけいかく)は、アドルフ・ヒトラー政権獲得後、単独犯と組織的なものを合わせて、少なくとも42回企てられた[1]
諸計画

ナチス政権下のドイツのような警察国家の体制下では、民衆レベルの組織的反政府運動は極めて困難であった。秘密警察ゲシュタポが国民を厳しく監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧した。その状況下で武器も持たない一般人が、強力な兵器で武装した親衛隊や国防軍に抵抗することなど不可能であった。

第二次世界大戦勃発後は暗殺防止のため、ヒトラーのパレードは減り、一般人の前に姿を現す回数も減り、さらに戦局が悪化し総統大本営に引きこもることが多くなると、一般の個人による暗殺はほぼ不可能となり、実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに直接近づける立場にある少数の者に限られていった。また、フォックスレイ作戦など連合国軍による暗殺計画も企てられたが、全て実行に移されなかったか失敗している。
計画者並びに実行者不明による暗殺未遂

1932年1月、ベルリンにあるカイザーホーフホテルのレストランで、ヒトラー達が昼食を摂ったものの、1時間後体調に異変が生じた[2]。その中でもヒトラーの副官ヴィルヘルム・ブリュックナーが一時重症になり命を危ぶまれたが、ヒトラーは少食で菜食主義であったため、軽症ですんだ[2]。計画者も実行者も特定できず、事件は闇に葬られた[2]
個人による暗殺未遂事件

1938年11月9日スイスの神学生モーリス・バヴォー(de:Maurice Bavaud)による暗殺未遂
ヒトラーの別荘があるベルヒテスガーデンで現地の警察から、毎年11月8日から9日にミュンヘンミュンヘン一揆の記念式典があり、その時ならヒトラーと会える機会があると聞き、ミュンヘン市内の将軍廟の前でミュンヘン一揆記念パレードが行われた際、ヒトラーを拳銃で射殺しようと試みたが、パレード見物の大勢の群集に阻まれて狙いが定められず失敗[3]。1週間後に国境に向かう途中の列車内で無賃乗車で逮捕される[4]。持ち物に拳銃が見つかり、バヴォーは射撃が趣味だと言い張るが、弾薬とミュンヘンとベルヒテスガーデンの地図が見つかり、1939年2月にヒトラー暗殺未遂で逮捕された[5]。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所で死刑を宣告され、1941年5月14日、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所でギロチンによって処刑された[6]事件後のビュルガーブロイケラー

1939年11月8日、当時36歳の家具職人ゲオルク・エルザーによる暗殺未遂。
ヒトラーは1923年11月8日のミュンヘン一揆を回顧するため、毎年その日にビアホールビュルガーブロイケラー」で約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有ったエルザーは、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした[7][8]。11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラーに到着[9]。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時7分頃にはビアホールから出た[10]。その13分後の9時20分に爆弾が爆発し、3人が即死、67人が負傷し、その内5人が死亡[11]。負傷者の中にはヒトラーの恋人エーファ・ブラウンの父フリッツもいた[12]。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった[13]。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、結果的に爆発に巻き込まれなかった[13]。エルザーは11月8日夜、スイスへの国境侵犯の疑いで逮捕された[14]。当初は爆破事件の容疑者とは見なされていなかったが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される[15]。共犯者や背後関係が疑われ、ナチスによる自作自演説も流れたが、結局は単独犯行と断定されている[15]。彼はザクセンハウゼン、次いでダッハウ強制収容所に収監され、大戦末期の1945年4月9日に処刑された[16]。この事件以後、爆発物の管理が厳重になった[17]
ズデーテン危機における陸軍のクーデター計画

1938年5月、ドイツのチェコスロバキア攻撃計画が漏洩し、ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。情勢は緊迫し、チェコ、フランス、イギリスは動員を発令、ドイツでは陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック陸軍上級大将が、ヒトラーの政策に反対して辞任[18]。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。このような情勢下、反ヒトラーのクーデター・暗殺が計画された。元陸軍参謀総長ベック上級大将[19]、その後任の陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将[20]、国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将[21]、同情報次長ハンス・オスター陸軍大佐[21]、ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン陸軍大将[22]、装甲部隊司令官エーリヒ・ヘプナー陸軍中将[23]、ベルリン警視総監ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ警察大将[24]、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ警察中将[24]、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス(de:Hans Bernd Gisevius)[25]、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト[24]、高等裁判所裁判官ハンス・フォン・ドホナーニ[26]、外務省官房長エーリヒ・コルト(de:Erich Kordt)、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー[27]、精神科医カール・ボンヘッファー[26]ら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。


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