ヒップホップ音楽の歴史(ヒップホップおんがくのれきし)、またはラップの歴史は、1970年代末から21世紀までのヒップホップの歴史について記述する。
ヒップホップには4要素(DJ、ブレイクダンス、グラフィティ[注 1]、ラップ)があるとされている。この4要素にスクラッチを加える場合もある。ヒップホップは大都市ニューヨークで誕生し、世界へと拡散していった。 ヒップホップ音楽のルーツには、ラスト・ポエッツ
概要
オールドスクール・ヒップホップは、1970年代のニューヨークで、クール・ハークなどのブレイクビーツをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールの時代のDJやラッパーは、ディスコミュージック、ソウル、ファンクの音源を使用した。ラップのライムの内容は、ほとんどがパーティや、地元ニューヨークに関する話題が中心だったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」(1982)は例外で、そのメッセージ性は後のラップに大きな影響を与えた。
最初のラップ曲は、79年のファットバック・バンドの「キング・ティム III (Personality Jock)」と、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」[注 2] とされている。ブロンクスのグランドマスター・フラッシュやバンバータらからは局外者と見做されたが、「ラッパーズ・ディライト」はビルボードのトップ40に入った。その後続いて、カーティス・ブロウやグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブらの曲がリリースされた。「ザ・メッセージ」はニューヨーク周辺だけで約50万枚のヒットを記録したといわれている。
1970年代、多くの黒人専門ラジオ局はディスコ中心の選曲に切り替えたが、アフリカ系アメリカ人コミュニティの中にはディスコに対する揺り戻しもあった。アフリカ・バンバータによると、ブロンクスのヒップホップは、ラジオ局でプレイされるディスコに反対する運動としての側面があったという。ブロンクスのディスコ「クラブ371」ではDJハリウッドがレコードをプレイしており、ハリウッドのミックスや言葉遊びに魅了されたのが、ハーレムのカーティス・ブロウやブロンクスのグランドマスター・フラッシュらだった[3] オールド・スクールが若い黒人に飽きられたころに登場したのは、UTFO、LLクールJ、ランDMC[注 3]、フーディニらの一連のラップ・アーティストたちだった。彼らは、日本では「ミドル・スクール」と呼ばれることもあった。当時のヒット曲にはUTFO「ロクサーヌ、ロクサーヌ」、ランDMC「ウォーク・ディス・ウェイ」などがある。Run-D.M.C.が、ハードロックバンドのエアロスミスとコラボレーションした曲「Walk This Way」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。この曲はMTVでヘビーローテーションとなり、ビルボードのトップ5に入った最初のヒップホップの楽曲となった。1984年、デフ・ジャムレコーディングスは、ランD.M.C.のジョセフ・シモンズの兄弟、ラッセル・シモンズ
ミドル・スクール (1984 ? 1986)