ヒッピー
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ヒッピー(: hippie, hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、旧来の価値観に対抗するカウンターカルチャー の一翼を担った若者を指す。その運動がヒッピー・ムーブメントである。アーティストヴィトー・パウレカス(英語版)
概要ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピー達は、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。マジック・バスにしてサイケデリック・バス

同時代の観察記録である『ヒッピーのはじまり』[1] によれば、ヒッピー(HIPPY)という言葉は1966年ころのサンフランシスコのヘイトアシュベリー(英語版)地区に住んでいた若者たちを指すものとして使われるようになった。

「HIP」とはその語源がたしかではない。1940年代アフリカ系アメリカ人の間で流行したジャイブを踊る若者のスラングとしても使用された。当時、HIPは「飛んでいる」という意でもちいられており、それを1950年代ビートニクが採用し、一般化するようになった。ヒッピーはビートニクスの言葉や価値観を引継いでいた。

作家ノーマン・メイラーは1961年4月27日付の雑誌『ヴィレッジ・ヴォイス』の記事「J・F・ケネディカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーの中で、詩人ケネス・レックスロス(英語版)は「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフ(英語版)に参加している若者を指すのにつかった。マルコム・Xの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は黒人より黒人らしく行動した特定のタイプの白人「ウィガー(英語版)」を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ルーグ・オールダムは、1965年発表のローリング・ストーンズのLP『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて「シカゴのヒッピーたち」と称した。2005年のヒッピー

1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル(英語版)」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス(英語版))はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル[2] につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン(英語版)で「アクエリアス・フェスティバル(英語版)」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、かキャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル(英語版)」(1976年-1981年)を催し、オルタナティブライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。1970年、南米チリで行われたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石のフェスティバル」の意。北米のみならず、南米でもヒッピー文化は広まった。

こうした北米南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れの象徴となった。

アメリカにおいて、ヒッピーの一部はベトナム戦争徴兵制に反対し、そのため主流社会の軍事的覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的な軍事力による暴力やホロコーストなどに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然平和セックス自由巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。彼等は当時、西側の若者の間で流行した毛沢東思想や、コミューンの形成、環境運動動物愛護、自然食、LSDマジックマッシュルームマリファナ擁護に加えて、ヨガインド哲学ヒンヅー教仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢見た。

実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーに留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。Appleをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロック音楽や映画、美術、文学、舞踏、アメリカン・アニメといった大衆文化ヴィーガニズム菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。
詳細ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。

ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジ聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌプルースト、不条理作家フランツ・カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[3]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマンホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トールキン、20世紀ではビートニクスギンズバーグバロウズケルアック、また画家ではピカソデ・クーニングベン・シャーンレジェコクトーなどがヒッピーに好まれた[3]

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「ワンダーフォーゲル」は、当時の保守的な社会や文化に対する「カウンター・カルチャー」的な側面をもっていた。また保守的、伝統的なドイツのクラブの形式に反して、フォーク・ソングを愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。


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