ヒクソン・グレイシー
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ヒクソン・グレイシー
基本情報
本名ヒクソン・グレイシー
(Rickson Gracie)
通称400戦無敗の男
国籍 ブラジル
生年月日 (1958-11-21) 1958年11月21日(65歳)
出身地リオデジャネイロ州
所属ヒクソン・グレイシー柔術
身長178cm
体重84kg
バックボーングレイシー柔術
テーマ曲砦の戦い
トレヴァー・ジョーンズ&ランディ・エデルマン
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ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie、1958年11月21日 - )は、ブラジル男性柔術家総合格闘家リオデジャネイロ州出身。ヒクソン・グレイシー柔術所属。ブラジリアン柔術九段。

グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーの三男。息子のクロン・グレイシー柔術家総合格闘家である。

日本においては、総合格闘技の試合で高田延彦船木誠勝など著名なプロレスラー格闘家を相次いで破った。ホイス・グレイシー同様バーリ・トゥードルールの試合において相手をテイクダウンし、マウントパンチで攻撃、最後は絞め技関節技に持っていくというスタイルを使っていた。

総合格闘家としてのキャリアを完全無敗のまま引退した数少ない人物である。
来歴

18歳でエリオ・グレイシーからブラジリアン柔術黒帯を授与された。

1980年4月25日、20歳の時にレイ・ズールに勝利するとブラジルで多くの名声を得た。4年後にも対戦し再び勝利した。

ルタ・リーブリのウゴ・デュアルチとリオデジャネイロのビーチで喧嘩をして勝利する。正式な試合での対戦を望むデュアルチに、ヒクソンはビーチで会ったデュアルチの頬を張って喧嘩を仕掛けた。デュアルチは喧嘩の最中にヒクソンの門下生に蹴りを入れられたのが敗因だとして、ヒクソンの道場を訪れて再戦を要求するも、ヒクソンは挑戦を受け返り討ちにした。

1993年UFCが開催されることになり、ヒクソンは一族を代表して出場することを強く希望するが実兄のホリオンによって却下される。結局、弟ホイスのセコンドでサポートにまわることに合意する。そのUFCにおいて優勝したホイス・グレイシーが「兄ヒクソンは私の十倍強い」と発言した事で注目が集まった。

400戦無敗というマスコミの報道は誇張されたもので、本人が積極的に公言したわけではない。「ビーチでのストリートファイトも含めてそれぐらいの試合を経験した」と本人が佐山聡に語ったところ、それがキャッチフレーズとして使われ続けることになった。柔術を始めて間もない頃や米国のサンボの試合で敗れているが、本人はそれを隠すことなく認めている。父のエリオもこのキャッチフレーズを強さの証として使用することには否定的で、「彼が『試合した』のは報道されているものだけ。道場での練習やアマチュアの試合を含めたら私は100万回はやっていることになってしまう」とコメントしている。ブラジリアン柔術がUFCでその名を世界的に知られるようになる以前は、大会自体がまだ小規模であったため戦績を正確に把握することが難しいこともその背景にある。

1994年7月29日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1994で初来日。1回戦では西良典、準決勝ではダビッド・レビキ、決勝ではバド・スミスにほぼ無傷で勝利し、圧倒的な強さを見せた。テイクダウンからマウント、絞めを狙うシンプルな戦法のみであったがインパクトは大きく、それまで打撃重視、組技軽視の傾向があった格闘技の概念を逆転させるほどであった。この試合をきっかけに、修斗グラウンドパンチを段階的に解禁し、他の興行もその流れにしたがっていく。

1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソンの道場へ道場破りに来た安生洋二の挑戦を受け、その場で返り討ちにした。試合時間は6分あまり。開始直後にマウントポジションをとって一方的に殴り続け、最後はチョークスリーパーで絞め落とした。公式試合ではないが、多くの弟子が見守る中で行い、証拠としてビデオ録画もさせている。ヒクソンはこの闘いでマウントパンチを多用し、安生を血だるまにさせた。ヒクソンの試合はマウントパンチはあくまで関節や絞めを取るための布石のような使い方をするが、このような道場破り相手では、簡単にタップさせると「俺は負けていない」と相手がごねるケースがあるため、誰が見ても勝敗がはっきりわかるようにマウントパンチを多用したと語っている。また、この時撮られたビデオは後にマスコミ関係者のみに1度だけ公開されており、これも後にヒクソン側に不正があったと言われないようにするためである。この道場破りは安生の個人的意思とは違う理由(詳細は安生洋二の項目を参照)が大きかったのをヒクソンは理解し、試合後当初は安生をねぎらうコメントを残した。

1995年4月20日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1995に出場。前回と違い、「ロープ掴みOK」というルールの影響や対戦相手に研究されていたために時間はかかるも、さほどのダメージもなく優勝。1回戦では山本宜久、準決勝では木村浩一郎、決勝では中井祐樹を、それぞれチョークスリーパーで下した。

1997年10月11日、PRIDEの初興行となったPRIDE.1高田延彦と対戦。高田にほぼ何もさせず腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

1998年6月上旬、椎間板ヘルニアを発症。9月に腰の痛みがなくなり高田延彦戦の準備のため来日するが、ヘルニアが再発し再度治療に専念。

1998年10月11日、PRIDE.4で高田延彦のリベンジマッチを受け、1ラウンド9分30秒、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2000年5月26日、コロシアム2000船木誠勝と対戦。「肘打ち無し」のルールを自ら希望して臨んだ。船木のパンチで左眼窩底を骨折するも、レスリング技のスナップダウンでグラウンドに持ち込んでからは圧倒。バックをとると船木の片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーで絞め落とした。

2001年2月、長男ハクソン・グレイシーニューヨークで死去してから約1年間は表立った活動を控えていたが、2002年4月26日、自身の写真集「21st CENTURY WARRIOR'S SPIRIT」の出版と同時に活動を再開。

2005年10月19日、カリフォルニア州ブドーチャレンジを主催した。

2007年9月17日、HERO'Sに参戦した弟子ケビン・ケーシーのセコンドとして来日。試合前日に新宿ステーションスクエアで行われた公開記者会見では桜庭和志と握手を交わした。大会当日には、リングに上がり「もう1試合戦いを見せる力はまだあります」とHERO'S参戦を宣言した。

2008年2月、全日本柔術連盟(JJFJ)を設立し、初代会長に就任。なお、相談役は父であるエリオ・グレイシー、理事長は弟子の渡辺孝真が就任した。

同年5月と翌2009年6月27日の、「ヒクソン・グレイシー杯国際柔術大会」のため来日。

2010年9月24日、日本でビジネスマン向け新刊書『ヒクソン・グレイシー無敗の法則』(ダイヤモンド社)を刊行し、同日、新宿コクーンタワーブックファーストでファン向けイベントを開催する。

2017年7月、長兄のホリオン・グレイシーより赤帯を授与される。しかし、授与以降もそれまで巻いていた赤黒帯を継続して巻いている。このことについてヒクソンは「授与自体はありがたく感じるが、赤帯は赤帯を授与できる人間が話し合って認められるべきであって、個人が決定してよいものではない」と理由を述べている。
人物

歳の離れた兄弟が多かったことから、同年代との触れ合いがわからず、自分よりも年配の人たちとの付き合いのほうが好きになれたとのこと
[1]

道場では多くの弟子を持つが、自ら黒帯を与えたのは2006年1月に公表した時点で20人に過ぎない。そのうち日本人は1人だけ(アクシス柔術アカデミーの代表、渡辺孝真)である。

自然な生き方を追求しており、ヨーガなどの技術も取り入れた独特のトレーニングを行い、海からエネルギーを貰う為に常に海に近い所を選んで住んでいるという。また来日した際には、大会の数週間前から中村頼永軽井沢の山小屋に家族を連れて山籠りし、時差ボケを解消しながら山の薄い空気の中で鍛錬を行うのがヒクソンの習慣であった(ヒクソンはのちの自伝に「長野県を魂の故郷のように感じていた」とまで記している)[2][3]


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