パーヴェル1世
ПавепBI
ロシア皇帝
パーヴェル1世
在位1796年11月17日 - 1801年3月23日(ロシア皇帝)
1762年7月17日 - 1773年8月27日(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)
戴冠式1797年4月5日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂
別号オルデンブルク伯
ホルシュタイン公
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公
全名ПавепBПетрович
パーヴェル・ペトロヴィチ
出生 (1754-10-01) 1754年10月1日
ロシア帝国、サンクトペテルブルク、エリザヴェータ・ペトロヴナ夏宮殿
パーヴェル1世(ロシア語: ПавепBI, ラテン文字転写: Pavel I(パーヴィェル・ピェールヴィイ)、パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: ПавепBПетрович Романов, ラテン文字転写: Pavel Petrovich Romanov(パーヴィェル・ピトローヴィチュ・ラマーナフ))、1754年10月1日(ユリウス暦9月20日) - 1801年3月23日(ユリウス暦3月11日))は、ロマノフ朝第9代ロシア皇帝(在位:1796年11月17日 - 1801年3月23日)。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公・オルデンブルク伯としてはパウル(ドイツ語: Paul)。
母エカチェリーナ2世の崩御を受けてロシア皇帝に即位する。母帝との確執からエカチェリーナの政治を全否定する政治路線を採り、次第に廷臣の離反を生み、ついには1801年3月23日クーデターによって暗殺された。
現在に至るまで暴君、暗君の悪名が絶えない皇帝だが、暗殺により非業の死を遂げた結果、彼の治世や彼個人への悪評はもっぱら彼の反対派により綴られたものであることに注意が必要である。
生涯
生い立ちパーヴェル・ペトロヴィチ大公
1754年10月1日(グレゴリオ暦)にサンクトペテルブルクのエリザヴェータ・ペトロヴナ夏宮殿(ロシア語版)で、ロシア皇太子ピョートル・フョードロヴィチ大公(後の皇帝ピョートル3世)と皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナ(後の女帝エカチェリーナ2世)の第1皇子として誕生する[1]。
パーヴェルの出生に当たっては、ピョートル・エカチェリーナ夫妻の子ではなく、エカチェリーナとその愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵の間の子であるという説があり[1]、エカチェリーナ自身が回想録でそのことを強くほのめかしている。エカチェリーナはピョートルが不能であり、子供を作ることはできなかったと主張しているが、現存するピョートルのエカチェリーナ宛の手紙の内容はこれを否定するものであり[2]、ニコライ1世(パーヴェル1世の息子)のY染色体ハプログループ(男系で遺伝する)はロシアで殆んど見られないものである。ブリタニカ百科事典第11版では風説(とエカチェリーナ2世の吹聴)以上の証拠はないとしている[1]。
もっとも、セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵はフィラレートの姉妹のアナスタシア(ロマノフ朝初代ツァーリのミハイル・ロマノフの叔母)の子孫であるため[3]、仮にパーヴェルの父が彼であったとしてもパーヴェルはロマノフ家の血を引いていることになる。
皇太子時代パーヴェル・ペトロヴィチ大公.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、パーヴェル1世に関連するメディアおよびカテゴリがあります。
幼児期に母親から引き離されてエリザヴェータ女帝の下で養育され[1]、1760年には教育係(東宮傅育官)としてニキータ・パーニン伯爵が任命された。エリザヴェータは後継者であるパーヴェルを溺愛したが、無分別で無思慮な少年に育ってしまったとされる。その一方で、少年時代のパーヴェルについては知的で容貌が美しいとも報告されている[1]。1771年にチフスにかかり、容貌が変化したため、粗暴で猜疑心の強い性格を形成したといわれる[1]。