パームビーチ国際空港
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パームビーチ国際空港

IATA: PBI ? ICAO: KPBI
概要
空港種別公共
所有者パームビーチ郡
運営者パームビーチ郡空港局
所在地フロリダ州ウェストパームビーチ
供給都市パームビーチ郡マイアミ都市圏
標高19 ft / 6 m
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯26度40分59秒 西経80度05分44秒 / 北緯26.68306度 西経80.09556度 / 26.68306; -80.09556座標: 北緯26度40分59秒 西経80度05分44秒 / 北緯26.68306度 西経80.09556度 / 26.68306; -80.09556
ウェブサイト ⇒www.pbia.org
地図
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滑走路

方向全長表面
ftm
10L/28R10,0013,048アスファルト
10R/28L3,214980アスファルト
14/326,9262,111アスファルト

統計 (2018)

発着数140,383
拠点機数171
乗客数6,513,943

出典: 連邦航空局 www.pbia.org[1]

パームビーチ国際空港(IATA: PBI, ICAO: KPBI)は、フロリダ州パームビーチ郡ウェストパームビーチ西部にある公共の空港である。この空港は、ウェストパームビーチ、ボカラトンパームビーチ、およびこの周辺地域の主要空港であり、マイアミ都市圏の主要3空港の一つでもある。空港はパームビーチ郡の空港局が運営している。空港へは州間高速道路95号線、州道80号線、コングレス・アベニュー(州道807号線)が直接繋がっており、西側にはミリタリー・トレイル(州道809号線)が面している。
歴史

パームビーチ国際空港は1936年にモリソン・フィールドとして運営され始めた。この名は飛行場の計画と組織化に貢献したグレイス・K・モリソンを称えて名付けられたものである。最初のフライトは1936年、イースタン航空ダグラス DC-2によるニューヨークへのフライトだった。空港は1936年12月19日に開港した[2]

滑走路と管理施設しか持たなかった空港は、1937年にパームビーチ・エアロが南側の土地を借り、格納庫と最初のターミナルを建設したことで拡大した。そのターミナルはイースタン航空ターミナルと呼ばれるようになった[2]

第二次世界大戦中は、空港はアメリカ陸軍航空軍が使用した。真珠湾攻撃後、モリソン・フィールドは軍の訓練に用いられ、後のフランス侵攻の際にはノルマンディー上陸作戦に参加するためにイギリスへ向かう多くの航空機の中継基地として使われた[2]。また、ブラジルと西アフリカを経由してインドへ向かう航空機の中継地点でも会った[3]

1947年、新しく作られたアメリカ空軍はモリソン・フィールドをパームビーチ郡に返還した。そして1948年、空港名はパームビーチ国際空港に変更された[3]

1951年、空港は米軍航空輸送部隊(英語版)(MATS)の指揮下で再度アメリカ空軍が用いることになり、パームビーチ空軍基地と改名された。空軍の作戦には敷地の北半分が使われ、民間業務と航空会社のターミナルには南半分が使われた。MATSはこの基地を管理部隊の第1707航空団と第1740重輸送訓練部隊の訓練に用いた。第1707航空団は「MATSの大学」として知られ、重輸送機の飛行やサポートに関わる全人員を訓練する空軍の重要部隊となった。これには、C-124 グローブマスター、C-118 リフトマスター、C-97 ストラトフレイターC-54 スカイマスターのパイロットやメンテナンスの訓練があった。朝鮮戦争中には約23,000人がここで訓練をうけた[2]

航空気象部(Air Weather Service)もパームビーチ空軍基地をハリケーン研究の本部として使っており、ハリケーン・ハンターと呼ばれた最初のWB-50 スーパーフォートレスを1956年に飛行させた。

パームビーチ郡がウェストパームビーチへの空軍駐留について何年も争った結果、空軍はここでの任務を縮小し始めた。第1707航空団は1959年6月30日に活動を終了し、オクラホマ州ティンカー空軍基地に移動した。航空団が去ったことにより、パームビーチ郡は空港の運営を取り戻した。その後、パームビーチ空軍基地には、ハリケーンや気象の研究を行う第9気象群という小規模な部隊の駐留が継続され、これがこの基地の主要な活動となった。また空撮作図部(Air Photographic and Charting Service)は、その第1370写真作図団(Photo-Mapping Wing)をパームビーチ空軍基地に移した。これは測地調査のためのフライトを行う部隊だった。最終的にパームビーチ空軍基地は1962年に閉鎖され、全ての施設はパームビーチ国際空港に譲渡された。

定期便はデルタ航空が1959年に、キャピタル航空(英語版)が1960年に運航し始めた。最初のターボプロップ機はイースタン航空ロッキード L-188だった。また、イースタン航空は1960年にDC-8を用いてアイドルワイルド空港(現JFK空港)へのノンストップ便を始めた。

1960年代初頭にジョン・F・ケネディが大統領だった頃、エアフォースワンが頻繁にパームビーチ国際空港に来ていた。その当時、地元の有権者は空港を移転させる案を拒否し、既存の設備を拡張させることを選んだ。1966年10月、8カ所のゲートを持つメインターミナルが空港の北東部に開業した。そして1974年、デルタ航空はこの空港で初めてとなる搭乗橋を持つターミナルを使い始めた[2]。またこの頃、連邦航空局は新しい管制塔を敷地南側に建設した。

1970年代中頃までには、ここの主要な航空会社はデルタ航空イースタン航空ナショナル航空になっていた。イースタンは当時のこの空港にワイドボディ機を就航させていた唯一の会社であり、ニューヨークのJFKニューアークL-1011を毎日飛ばしていた[4]

1979年にはナショナル航空はJFK、ラガーディア空港マイアミ空港へ、DC-10を毎日飛ばしていた。また、イースタンはL-1011をアトランタ空港へ、デルタはL-1011をタンパ空港へ飛ばしていた[5]。1985年にはパームビーチ・ニューヨーク間に毎日8機のワイドボディ機が飛んでいた[6]

1988年、25基のゲートを持つデイビット・マキャンベル・ターミナルが開業した。このターミナル名は、第二次世界大戦当時の海軍のエースパイロット名に由来する[7]。2003年、このターミナルはコンデナスト・トラベラー誌の読者投票で国内最良に選ばれた。同年、サザン・ブルーバード(国道98号線)の交通量を減らすために州間高速道路95号線のインターチェンジが新しく作り直され、ターネイジ・ブルーバード(空港敷地内の道路)へ繋げられた。


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