パーマストン
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イギリス政治家第3代パーマストン子爵
ヘンリー・ジョン・テンプル3rd Viscount Palmerston
Henry John Temple
パーマストン子爵
生年月日1784年10月20日
出生地 グレートブリテン王国イングランドロンドン
没年月日 (1865-10-18) 1865年10月18日(80歳没)
死没地 イギリス、イングランド、ハートフォードシャー
出身校ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版)
所属政党トーリー党 →カニング派(英語版)→ホイッグ党自由党
称号第3代パーマストン子爵ガーター勲章勲爵士 (KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス (GCB)、枢密顧問官(PC)
配偶者エミリー(英語版)
親族第2代パーマストン子爵(英語版)(父)
第2代メルバーン子爵(義兄)
サイン
首相
在任期間1855年2月8日 - 1858年2月20日[1]
1859年6月12日 - 1865年10月18日[1]
女王ヴィクトリア
内務大臣
内閣アバディーン伯爵内閣
在任期間1852年12月28日 - 1855年1月31日[1]
外務大臣
内閣グレイ伯爵内閣、第一次メルバーン子爵内閣
第二次メルバーン子爵内閣
第一次ジョン・ラッセル卿内閣
在任期間1830年11月20日 - 1834年11月15日
1835年4月18日 - 1841年9月2日
1846年7月6日 - 1851年12月19日[2]
戦時大臣
内閣スペンサー・パーシヴァル内閣、リヴァプール伯爵内閣、ジョージ・カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣、ウェリントン公爵内閣
在任期間1809年10月 - 1828年5月28日
庶民院議員
選挙区ニューポート選挙区(英語版)[3]
ケンブリッジ大学選挙区(英語版)[3]
ブレッチングリー選挙区(英語版)[3]
南ハンプシャー選挙区(英語版)[3]
ティバートン選挙区(英語版)[3]
在任期間1807年5月8日 - 1811年12月31日[3]
1811年3月27日 - 1831年7月25日[3]
1831年7月18日 - 1832年12月10日[3]
1832年12月15日 - 1835年1月13日[3]
1835年6月1日 - 1866年12月31日[3]
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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(: Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC, FRS, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)は、イギリス政治家貴族

ホイッグ党自由党に改組した自由党初の首相であり、首相を2期務め(第一次:1855年-1858年第二次1859年-1865年)、またそれ以前には外務大臣を3期にわたって務めた(在職1830年-1834年1835年-1841年1846年-1851年)。内務大臣(在職1852年-1855年)を務めていた時期もある。

ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝中期にかけて主に外交の分野で活躍し、大英帝国の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交を行ったことで知られる。ヨーロッパでは会議外交によって各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行った。非ヨーロッパの低開発国に対しては砲艦外交不平等条約による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国に組み込む「自由貿易帝国主義」を遂行した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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