パーソナリティ
欧字表記Personality
品種サラブレッド[1]
性別牡[1]
毛色鹿毛[1]
生誕1967年5月27日[1][2][1]
死没1990年11月20日(23歳没)[2]
父Hail to Reason[1]
母Affectionately[1]
母の父Swaps[1]
生国 アメリカ合衆国(ケンタッキー州)[3]
生産者Bieber-Jacobs Stable[3]
馬主Ethel D. Jacobs
調教師John W. Jacobs
競走成績
生涯成績25戦8勝[1]
獲得賞金462,603ドル[2]
勝ち鞍ウッドメモリアルステークス(1970年)
プリークネスステークス(1970年)
ジャージーダービー(1970年)
ジムダンディステークス(1970年)
ウッドワードステークス(1970年)
[1]
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パーソナリティ (Personality)[1] とは、アメリカ合衆国生産のサラブレッドの競走馬、種牡馬。1970年のプリークネスステークスに優勝し、同年の年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出された[3]。種牡馬としては、日本でホクトヘリオスらの父となった。 ヘイルトゥリーズンを生産したビーバー・ジェイコブスステーブルの生産馬の一頭で、その経営者であったヒルシュ・ジェイコブス調教師に所有された馬である。母アフェクショネイトリーはヒルシュ管理のもとで短距離戦線で猛威を振るった馬で、後年殿堂入りを果たした名牝であった。ヒルシュは1970年に没するが、生前パーソナリティに期待をかけており、いつも財布に写真を入れていたという[4]。また、馬の肖像画を多く制作してきた画家リチャード・ストーン・リーヴス
経歴
出生
パーソナリティはヒルシュ・ジェイコブスの妻エセルの馬主名義で競走馬となり、ヒルシュの息子ジョン・ジェイコブスが管理と調教を担当した[2]。また、1970年の3歳シーズンになる前頃に、ジョン・ゲインズとJ・W・ハーネス、J・M・オリン、ジェームズ・ハウラハンらに権利の半分を売却している[2]。 パーソナリティは靭帯と種子骨に不安があり、2歳のうちはあまり多く使われなかった[4][2]。3歳の春、パーソナリティはケンタッキーダービーの前哨戦のひとつであるウッドメモリアルステークスに出走した。同年のウッドメモリアルステークスは分割競走となり、パーソナリティはその14頭が走るなかの3番手に控えて道中を進み、直線に向いてから同じく先行していたサイレントスクリーンとの叩きあいをわずかな差で制して優勝、クラシック戦線に名乗りを上げた[4]。 ケンタッキーダービーにおいてはエディ・ベルモンテを鞍上に迎え、同厩舎のハイエシュロン[注 1]とカップリングで単勝4倍に支持されていた[6]。ここでは優勝馬ダストコマンダーから大きく離され、見せ場なく8着に敗れている。しかし、ジェイコブスは3着に入ったハイエシュロンよりも、パーソナリティの可能性に期待を持っていた[7]。 1970年のプリークネスステークス当日、ピムリコ競馬場は42,474人の観衆が詰めかけていた[7]。レースでは、ゲートが開くとサイレントスクリーンが勢いよく飛び出すが、それをオーフュージとプレンティオールドの2頭が越して先頭に立ち、パーソナリティはそれらの後ろ5番手につけて前半を進んでいった。バックストレッチの中盤からサイレントスクリーンが先頭に立つと、パーソナリティもその後ろ2番手につける一方で、後方10番手にいた1番人気のマイダッドジョージが徐々に前に進んでいく展開になった。ダストコマンダーも7番手から3番手まで進出していたが、ここで力尽きて後退していった。残り1/8の標識のところでパーソナリティはサイレントスクリーンを捉えると、マイダッドジョージもそこに並び掛けてきた。そのまま最後の直線でパーソナリティとマイダッドジョージが叩きあいを演じ、クビ差でパーソナリティが栄冠を手にした。3着には3馬身離されたサイレントスクリーン、4着には2馬身差でハイエシュロンが入っている[7]。 パーソナリティはプリークネスの2週間後にジャージーダービー
競走成績
夏のサラトガ競馬場開催では、まずジムダンディステークスに出走して、2着馬ロードをアタマ差下して優勝[10]するが、トラヴァーズステークスではロードに敗れて4着に終わっている[11]。
10月に迎えたウッドワードステークスは古馬との初の対戦で、さらに当時の牝馬戦線の強豪シュヴィーが参戦し、42,370人の観客を集めていた[12]。レースではパーソナリティが先行し、最後の直線でハイドロジスト・トゥーガンダンという2頭の古馬とせり合い、写真判定の末に優勝を手にした[12]。