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パンチ さとう
パンチ 佐藤
本名佐藤 和弘
生年月日 (1964-12-03) 1964年12月3日(59歳)
出生地 日本・神奈川県川崎市中原区
国籍 日本
身長177cm
職業元プロ野球選手・野球解説者・タレント・俳優
活動期間1995年 -
配偶者あり
著名な家族佐藤華純(娘)
事務所フリー
公式サイトhttps://ameblo.jp/punch-sato/
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パンチ(佐藤 和弘)基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県川崎市中原区
生年月日 (1964-12-03) 1964年12月3日(59歳)
身長
体重177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1989年 ドラフト1位
初出場1990年4月8日
最終出場1994年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
武相高等学校
亜細亜大学
熊谷組
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ(1990 - 1994)
茨城ゴールデンゴールズ
熊球クラブ
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パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)、1964年〈昭和39年〉12月3日 - )は、神奈川県出身のタレント、元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、野球解説者。愛称は「パンチ」。 川崎市立西中原中学校[1]から武相高校[2]に進学。1982年春季関東大会準々決勝に進むが、関東学園大附高に延長14回敗退。同年夏の甲子園県予選は準々決勝で、後にプロで同僚となる高田誠のいた法政二高に延長10回サヨナラ負けを喫する。 亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンも務めた[3]。東都大学野球リーグでは、1年上の3年生エース三原昇の好投もあって1984年春季リーグで優勝を経験。直後の全日本大学野球選手権大会では決勝に進むが、3年生エース西川佳明や秦真司捕手、島田茂、伊吹淳一(のち熊谷組)、若井基安ら強力打線の法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。1985年秋季リーグでは、4年生三原昇と同期3年生阿波野秀幸の両エースに、4年生古川慎一と鈴木慶裕、パンチ佐藤ら強力打線を擁しながら、駒大に次ぐ2位に終わる。最上級生となった1986年秋季リーグでは、エース阿波野秀幸が9勝を挙げるが、またしても駒大に次ぐ2位に終わる。リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率.299、5本塁打、42打点。ベストナイン3回(一塁手)。大学の1年下には与田剛がいた。 卒業後は社会人野球の熊谷組に入社。俊足かつ強打の選手として知られ、1988年の都市対抗では左翼手、三番打者として準決勝に進むが、NTT東海に敗退[4]。同年から2年続けて社会人ベストナイン(外野手)に選出されている。1989年の都市対抗では2回戦でヨークベニマルから、大会史上2人目のサイクル安打を記録している[4]。 1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。 即戦力として期待され、1年目の1990年は8月から故障のブーマー・ウェルズに代わり、一塁手として29試合に先発出場を果たす。1991年も左翼手として11試合に先発。同年11月3日開催のパ・リーグオールスター東西対抗(静岡県草薙総合運動場硬式野球場)では、指名打者の新井宏昌の代打として出場し6回裏に2点本塁打を記録、MVPを受賞している。1年目こそ即戦力として結果は出したものの、翌年以降は自身の不振や故障が多く、また外野・一塁・指名打者と不動のレギュラーもあり出場機会が年々減少、1993年には一軍での安打0本に終わる。 1994年4月7日、新監督の仰木彬及び打撃コーチに新任した新井宏昌との共同発案で鈴木一朗と共に新しい登録名「パンチ」に変更[5]。心機一転したパンチは復活を目指すが、出場機会は恵まれず先発出場も果たせなかった。11月4日に引退を発表した[6]。 現役時代は愛嬌あるキャラクターで親しまれた反面、好不調の波が激しく、また守備面でも送球に難があることが弱点であった。男気あふれるキャラクターや「パンチ語録」で人気を博し、フジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で度々取り上げられ話題になり、また任侠・男伊達の世界観を愛し、演歌好きでも知られた。かつてスーツの裏地に物々しい虎の刺繍をびっしり入れたこともあり、「いや、こういうのは女性の下着といっしょで自分で満足するもんですから」と言ったことがある。 タレントとしてスポーツバラエティ番組をはじめ、身体能力を活かした番組のほか、ドラマなどにも積極的に出演している。 1995年はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者として、プロ野球中継に出演することもあった。 2005年9月には、自宅駐車場に不審者(覚醒剤所持者)が侵入している所を取り押さえ、地元・中原警察署から表彰を受けた。 2010年9月1日、小澤音楽事務所からスターヒルに所属事務所を移籍した。 2014年9月、翌年よりベースボール・チャレンジ・リーグに加入予定の武蔵ヒートベアーズの宣伝本部長に就任[7]。2015年10月1日、契約満了により退任した[8]。 2015年、アスリートとメールのやりとりなどができる有料会員制SNSサービス『athlete club(アスリートクラブ)』を月額10万円の会員費で開始した。[9] 2015年、「笠間サポーターズ」の第一号として登録された。「笠間サポーターズ」とは茨城県にある笠間市を愛し、応援したいという気持ちを持つ個人や団体の方が登録できる制度のことで、パンチは年に数回その笠間市を訪れていて、そのことについてブログも更新している。 2005年にタレント・萩本欽一が監督を務める社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズに入団が決定したが、その直後に別のプロ野球経験者が入団することになり、プロ経験者登録枠の関係と「古巣に恩返しがしたい」ということから、1994年に休部した熊谷組野球部のOBで結成したクラブチーム・熊球クラブに加入した(登録名義は佐藤和弘。2008年をもって退団)。 強打の外野手として期待されたものの、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ[10]。1994年、新監督に仰木が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認した)。この際仰木らは、実際にはイチローひとりを売り出すために登録名変更を思い立ったものの、当時はまだ全国区ではなかったイチロー一人だけを改名した場合、イチローだけが目立ってかえって萎縮してしまうことを懸念していた。そこで仰木らは、既に全国区だったパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、こうして2人の登録名が変更されるに至った。 新たな登録名で心機一転したパンチは復活を目指し、手ごたえを感じつつあった1994年のシーズン終盤、仰木から直々に飲食に誘われ、期待の言葉をかけられると思っていたところ、直接引退勧告(戦力外通告)を受ける。「野球より芸能界の方が向いているのではないか」と見抜いており、仰木から戦力外を言い渡されると「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論したが、仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。資産も多く持っているならいい、でも奥さんも子供もいる。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。「尊敬する仰木さん」にそこまで言われてしまっては仕方がないとあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。 現役最終打席は1994年にグリーンスタジアム神戸で開催された対近鉄戦の代打出場だった。 小学生時代のあだ名は「ザット」(“さとう”をもじって)。当時は両親が共働きで、帰ってくるのが遅いため、団地の前で日が暮れるまで素振りをしたという。 パンチパーマにした理由は、社会人時代に坊主頭にしていた時、相手チームのボールを拾ってあげたところ、どうみても年下の選手から丁寧な「ありがとうございます」ではなく軽々しく「サンキュー」といわれたことに憤慨し、若く見られないために始めたものである。 武相高等学校の1学年先輩にタレントの出川哲朗(軟式野球部OB)がいる。 大学4年時に監督から呼び出されて、「行きたくない会社はあるか」と聞かれたが「監督にお任せします」と答えるしかなく、熊谷組へ進むことを決められたという。 熊谷組時代の1988年に、グリーンスタジアム神戸の完成記念試合(三菱重工神戸硬式野球部との練習試合)で、同球場初の本塁打を放った。両社がスタジアムの工事を請け負っていたことによる対戦で、試合終了後には、球場内のレストランで三菱重工神戸の選手と酒食を共にしたという[11]。 ドラフト指名時には熊谷組の寮で当時のオリックス上田利治監督からの電話に「会社の方と相談して決める事ですけれども…自分の心はひとつです!!」と応え、入団当時から話題をさらった(その時の映像が2000年代中盤にリクルート「フロムエー」のCMでも使われた。ちなみに佐藤に受話器を渡したのが、電話番で当時高卒入社1年目の波留敏夫)。入団記者会見では契約金について「この1億円はプロで勝負させてもらう為のお金であり、手を出せないです」という発言で場内を驚かせた。また、セールスポイントについては「根性です」、どんな選手になりたいかとの問いには「グシャっとした当たりでもいいから塁に出られるバッターになりたい」と答えた。ちなみにドラフト前日にサッカーをやっていた際に足を骨折したため指名後の記者会見では松葉杖をつきながら登場した[12]。
来歴
プロ入り前
オリックス時代
引退後
社会人・クラブチームでの現役復帰
現役時代の実績
人物
プロ入り前
あまり裕福でなかったため、将来は県内で軟式野球の強豪である川崎市水道局に就職して安定した公務員になりたいと考えていた。
当初は大学進学は考えていなかったが、亜大から声がかかっていた野球部の同期が高校卒業後も厳しい上下関係が続くことを嫌って社会人野球入りを決めたために自身に話が回ってきたという。
入社後は野球中心の生活を送りながらも毎月給与が入ったり、代表メンバーに選ばれると手当てが出たりすることに感激していた。
現役時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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