パンチェヴォ
Панчево
位置
パンチェヴォの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度52分 東経20度38分 / 北緯44.867度 東経20.633度 / 44.867; 20.633
パンチェヴォ (Pan?evo、セルビア語・キリル文字表記: Панчево)は、セルビアの都市および基礎自治体。ヴォイヴォディナ自治州に属し、ベオグラードの北東15kmの位置にある。2002年の市の人口は77,087人、基礎自治体全体では127,162人であった。南バナト郡の行政中心地である。また、市内を流れるティミシュ川(セルビア語ではタミシュ川)の重要な川港も持つ。 セルビア語では、町はパンチェヴォであるが、ハンガリー語ではパンチョヴァ (Pancsova)、トルコ語ではパンチョヴァ (Pancova)、ドイツ語ではパンチョヴァ (Pantschowa)、ルーマニア語ではパンチョヴァ (Panciova)、スロバキア語ではパンチェヴォ (Pan?evo)、ルシン語ではパンチェヴォ(Панчево)となる。 最初に歴史上に登場する記録は、12世紀である。市は16世紀までハンガリー王国に属し、その後オスマン帝国に支配された。トルコ支配の間、市はテメシュヴァル県の一部であった。そして広大な定住地に最も多く暮らしていたのはセルビア人であった。
市名
歴史
1848年から1849年にかけ、パンチェヴォはオーストリア帝国内のセルビア人州、スルプスカ・ヴォイヴォディナ(セルビア人のヴォイヴォディナ)の一部であった。しかし1849年に軍事境界線下へ戻った。1873年、バナトの軍事境界線が廃止され、市はトロンタール県へ編入された。1910年の調査によると、市の人口は20,808人で、そのうち8714人がセルビア語を話し、7,467人がドイツ語を、3,364人がハンガリー語を話した。
1918年から、パンチェヴォはセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(のちにユーゴスラビア王国となる)の一部となった。1921年の調査によると、市の人口は19,362人、セルビア人は9,422人、ドイツ人7,237人、ハンガリー人887人であった。1918年から1922年にかけ、市はバナト県に属し、1922年から1929年までベオグラード州に属し、1929年から1941年までベオグラード市行政に含まれていた。
1941年から1944年にかけ、パンチェヴォは枢軸国側に占領されていた。パンチェヴォは、ドイツ占領下のセルビアに含まれるバナト州の一部であった。1944年以降、市は新たにできたユーゴスラビア社会主義連邦共和国のヴォイヴォディナ自治州に含まれた。2003年から2006年までセルビア・モンテネグロに含まれていた。
1999年から、市はNATO軍の空襲で被害を受けた。