ブレーズ・パスカルの遺著『パンセ』は、フランス本国でも多くの版が出ている。
主要な版と、作成されるに至った経過を解説する。 ポール=ロワイヤル版への序文から(塩川訳[1] ) パスカル氏が宗教についての著作の構想を練っていたことを周囲の人々は知っていたので、氏が亡くなった後、彼らは氏がこの主題について書き残したすべての文書を細心の注意を払って寄せ集めた。それらはすべて紐で結わえたさまざまの束にまとめられたものとして見つかったが、そこにはいかなる順序もつながりもなかった。というのも、すでに述べたように、それは氏の思索の最初の表現、それが頭に浮かぶのに応じて、小さな紙片に書きつけたものにすぎなかったからだ。そして全体はあまりにも不完全で、筆跡もひどく読みにくかったので、その解読にはこの上ない苦労があった。 人々が最初におこなったのは、文書をそれがあるがままに、見出されたときと同じ混乱状態において筆写させることであった。しかしそれが写本となり、原本に比べて読みかつ検討するのが容易になってみると、それはあまりにも雑然として脈絡がなく、大部分の文章にはあまりに説明が欠けていたので、たいそう長い間、それを出版しようという考えはまったく出てこなかった。 この序文は匿名だが、パスカルの姉ジルベルト・ペリエ
パスカル死去時の自筆原稿
姉ジルベルト・ペリエ
(フランス語版)(1620-1687) が文書を相続。以後、ペリエ家が『パンセ』編集の中心となる。国立図書館蔵 手写本部 9202号。 A-Eの付録文+498pp. 430×280mm 緑色の羊皮紙製本
パスカル自身の筆跡ではない、口述筆記の断章も含む。
Gallica 2012年公開分
パスカルの死後、自筆原稿は紐を使って60余の紙束に閉じられた状態で発見された。パスカルの姉ジルベルトが嫁ぎ先ペリエ家で保存。ジルベルト死去(1687年)後、第5子ルイ・ペリエが相続した。
パスカル死後50年の時点で、すでに1割近くの文書が散逸していたとみられる。ルイは自筆原稿を430×280mmの台紙に張り付けて、それ以上の散逸をふせいだ。ただし、それまでも原稿断章間の順序は混乱していたようだが、この糊付け作業で、さらに順序がわからなくなった。
1711年、仮綴じ状態でサン=ジェルマン=デ=プレ教会図書館に寄託。1731年以後同図書館で製本。革命後の1795年から、王立図書館(現国立図書館)が管理[注 1]。 第1、第2写本とも主要な筆写者は同一人物で、つづりの特徴から職業筆写家とみられる。 この両写本は、原則として、4の倍数のページ単位からなる「ファイル」の集合となっている。一般に本を作成するとき、1回折りの折り丁で4ページできる。1つのファイル内の記事が、ちょうど4の倍数のページ量にならなければ、1-3ページの空白ページができる。原則としてこれを境界とみてファイル群の区別ができる。 両写本とも「目次」(内容の一覧表)を含む。第1写本では2個所、第2写本では1個所。この「目次」にある表題をもつファイル群が27、「目次」の表題をもたないファイル群が34または35あり、塩川は前者をAファイル、後者をBファイルと呼んだ[1]。以下にはその名称を使う[注 2]。 「目次」の自筆原稿は現存しないため、この「目次」はパスカルの意図を反映しているか論争されてきた。 そこでパスカル自身の原文がかつて存在し、それを横線をふくめて忠実に写したとみられる[注 3]。 フランス国立図書館所蔵 手写本部 9203号。目次を除いて本文472pp. (合計496pp.) 350×230mm 半綴じ ドン・タッサン パスカルの姉ジルベルトは1687年死去。第3子(次女)のマルグリッド・ペリエ
自筆原稿および主要写本の来歴は、DescotesとProust によるWeb " ⇒Pensees de Pascal"で一覧できる。
第1・第2写本の共通点
筆写者
ファイル
「目次」
「目次」はパスカルが作成したのか?
「目次」も本文と同一の筆写家が書いている。これは元原稿があったが、失われた可能性を示唆する。
第1写本に2個所、第2写本の1個所の「目次」は、「民衆の意見の健全さ」と一度書いて横線で引いて消してある事が、3つとも同じである。
第1写本
書誌事項
Gallica 2009年公開分
Gallica 2021年公開分
来歴
以下のジャン・ゲリエの記載が第1写本の冒頭にある。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私が死んだら、このノートをサン=ジェルマン=デ=プレに送って、サン=ジェルマン=デ=プレに寄託されている原本を読みやすくしてください。1723年4月1日サン・ジャン・ダンジェリ修道院で作成。ジャン・ゲリエ ファイルは、塩川の用語で、目次, A1-27, 目次その2, B1-34 の順。 「人々が最初におこなったのは、文書をそれがあるがままに、見出されたときと同じ混乱状態において筆者させることであった。」というポール=ロワイヤル版序文の記録を反映する、現在に残る最初の写本。ポール=ロワイヤル版編集に使われたので、1660年代の筆写は確実。ジャン・メナール 筆写家の文章以外に多数の追記加筆があり、大きく2種に分けられる[3]。 後者はパスカルの原文をあえて改変した文である。筆跡から推定すると、主に下記3人で分業した[4]。 出版作業時点では各ファイルはまだばらばらだった可能性がある。 上記のように、ポール=ロワイヤル版編集作業時点では、各ファイルは別々だったとすると、仮綴じされたのは、同版の編集作業が終了した1670年前後か、それ以後。すでに清書写本として第2写本ができていたとすると、仮綴じを急ぐ必然性はなく、ゲリエに寄贈された時点でもばらばらだった可能性もある[注 4]。 ラフュマによれば、現型に製本されたのは1731年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に寄贈された後。 仮綴じ時期を特定できないため、代々の所有者すべてに可能性がある。つまり長男エチエンヌ、母ジルベルト、3子マルグリッド、寄贈されたジャン・ゲリエ。ただしペリエ家の人々は、すでに第2写本を所有していたならば、あえてそれと違う順序でこちらを仮綴じしたとは、やや考えづらい。もっとも可能性があるのはジャン・ゲリエか[注 5]。 国立図書館所蔵 手写本部 12449号。 全920pp. (ただしパンセの第2写本に相当するのは、その前半の、目次+本文531pp.)330×232mm 牛皮製本 ピエール・ゲリエ(Pierre Guerrier, 1696-1773) 神父の回想録が参考資料。 パスカルの姉ジルベルトは1687年死去。第3子マルグリッドが相続。マルグリッドは1723年頃にクレルモンのオラトリオ会図書館に寄贈。それを1936年以後にピエール・ゲリエ(ジャン・ゲリエの甥)個人が所有した。ゲリエは1773年に死去し、1779年に王立図書館へ寄贈された。
構成
制作意図・制作時期
追記加筆
自筆原稿の解読過程での加筆
ポール=ロワイヤル版出版のための編集文
アルノー A7,15,16,18,B2
ニコル A2,3,10,13,24,B16
エチエンヌ A9,19,26,B3,4,5,19,23,24,25,26,28,30,33
製本時期
ファイルの順序を決めたのは誰か?
第2写本
書誌事項
Gallica 2013年公開分
Gallica 2021年公開分
来歴
構成
ファイルの順序が第1写本と異なる。目次, B1, A1-27, B35, B32-34, B23-31, B21-22, B20, B2-19 の順。
第1写本にないB35ファイルをふくむ。
Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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