パンジシール攻勢_(アフガニスタン紛争)
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パンジシール攻勢
アフガニスタン紛争

パンジシール渓谷の地図

時1980?1985
場所アフガニスタンパンジシール渓谷
結果

不確定

ソ連がパンジシール渓谷を占領

ソ連の撤退後、ムジャーヒディーンがパンジシール渓谷を再占領


衝突した勢力
 ソビエト連邦
アフガニスタン民主共和国

アフガニスタンのムジャーヒディーン

北部監督評議会

指揮官
レオニード・ブレジネフ
コンスタンティン・チェルネンコ
レオニード・ハバロフ(戦傷
セルゲイ・ソコロフ
ノラト・テル=グリゴリアンツ
ルスラン・アウシェフ
バブラク・カールマル アフマド・シャー・マスード

パンジシール攻勢(パンジシールこうせい、ロシア語: Панджшерские операции(パンジシール作戦))は、1980年から1985年にかけてソ連軍アフマド・シャー・マスードの指揮下でのアフガニスタンのムジャーヒディーンのグループが行った一連の戦闘を指す。これらの攻勢は1980年代のアフガニスタン紛争において、アフガニスタンの戦略的要衝パンジシール渓谷の制圧を目的としてソ連軍によって行われた。

パンジシールではアフガニスタン紛争で最も激しい戦いが繰り広げられた。9回の攻勢の間、ソ連軍の組織的な攻撃によって定期的にムジャーヒディーンは渓谷から追い出されたが、ソ連軍が渓谷を去ってまもなくすると戻ってきた。
戦略的目標

パンジシール渓谷はカブールの北70kmにあり、カーブルとアフガニスタン北部、さらに当時ソ連の一部であったウズベキスタンを結ぶ、ヒンドゥークシュ山脈サラン峠の近くに位置する。1979年6月、アフマド・シャー・マスードが率いる反政府勢力が政府軍を全て追放し、渓谷はゲリラの拠点となった。パンジシールから、ムジャーヒディーンのグループはアフガニスタンに駐留する第40軍への物資を運ぶソ連の輸送隊を頻繁に待ち伏せしていた。サラン峠は危険地帯となり、ソ連軍のトラック運転手は峠越えに成功したことで勲章を授与されるほどだった[1]。 兵站システムへの圧迫から、ソ連軍司令部は反政府勢力の排除に乗り出した。
ソ連の戦略

ソ連のパンジシール渓谷への攻勢には、主に3つの戦術的特徴があった。(1)標的地域への大規模な空爆を含む航空資産の集中、続いて(2)敵軍の撤退を阻止するためにヘリコプター部隊を着陸させ、(敵の)想定外の方向から敵と交戦し、(3)ヘリコプター着陸部隊と連携した機械化部隊によるゲリラ支援地域への進攻であった[2]。これらの戦術は、民間人に大きな被害をもたらした。ソ連は農作物と家畜を全て破壊し、パンジシール渓谷から民間人の大量移住を余儀なくさせることで、マスードから専従の戦闘員を維持するための資源を奪うことを考えていた。

この戦術は、マスードが組織を再建するために1983年1月に1年間の停戦条約に署名することを余儀なくさせるなど、一定の成功を収めた[3]。しかし、これらの勝利は永続的なものではなかった[要出典]。大規模な討伐攻勢の戦術に深刻な問題があり、それがこの戦争の特徴である膠着状態の一因となった。ムジャーヒディーン軍はアフガニスタン民主共和国(DRA)軍にいる仲間から攻勢が行われることを事前に知る事がしばしばあった。民間人やゲリラは爆撃地帯を避けて安全に移動できるだけでなく、ゲリラも待ち伏せや地雷の敷設、武器の隠し場所の移動などを計画することができた。装甲兵員輸送車やヘリコプターが到着すると、ゲリラはソ連軍と表立って対決するよりも、渓谷の脇に後退して小規模な待ち伏せを行うようになった[4]
時系列
第1?3次パンジシール攻勢パンジシール渓谷

ソ連軍のパンジシールでの最初の作戦は、同軍がアフガニスタンに到着して4か月後の1980年4月に実施された。これにはソ連軍の3個大隊(うち1個大隊はレオニード・ハバロフ大尉が率いる第56独立親衛空襲旅団第4大隊)と、アフガン軍および治安部隊の1000人が参加した。作戦の総指揮官はペシェボイ将軍が担った[5]

ムジャーヒディーンは、ソ連の情報では1000人、アフガニスタンの情報では200人以下と言われている。彼らは時代遅れのライフル銃で武装しているだけで、防御施設は建設しておらず、唯一の道路に地雷を敷いていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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